目次
はじめに
① 学生時代
・幼少〜小学生
・中、高生
・大学生
② サラリーマン時代
・就職、営業とは、師匠、大塚家具
③ 起業、上場、非上場
・起業
・赤字
・Francfranc誕生
・独立
・上場
・株主総会
・非上場
・ブランディング
・粗利
・海外展開
④ コロナ危機
・感
・生きる
・オーナーだからこそ無慈悲なリストラ
・最高益
⑤ 引退
・再上場ファンドを選ぶ
・旅
・何かをやりたい
⑥ 事業売却
・3年
・嫁がせる
⑦ Francfrancという存在
・世界で唯一無二
・マーケティング
・行きたい街
・女性心理
・戦うな
・AtoZ
⑧ スポーツとの関わり
・トライアスロン
・サーフィン
・他
⑨ 中高年の人たちへ
・歳をとるということ
・若く過ごす
・運動(体幹、姿勢)
・テストステロン
⑩ 若い人達へ
・人生の山
・お金を意識する
・旅
・恋愛
・結婚
・徳を積む
⑪ 幸せの考え方
・何が幸せなのか(金ではないが)
・線の引き方
・君子危に
・人間万事塞翁が馬
・友達
・カウンセラー
⑫ 死ぬまでのこと
・多幸感
・死生観
・みなさんさようなら
・いつ死んでも
⑬ 家族のこと
・両親のこと
・兄妹のこと
・カミさんのこと
・娘のこと
・孫のこと
・繋いでゆく
⑭ 今やっていること
・事業欲(ストックビジネス)
・HOTEL
・家、別荘
⑮ 最後に伝えたいこと
・QOL
・日本のこと
・生き様を作ろう
・無駄なことは何一つない
・もっと幸せに
はじめに
人生は巨大なあみだくじだと思う。ものごころついてから死ぬまで、何百万回(?)の白黒、右左、○×の判断をしてすすんでいく。そしてその判断の集大成の結果、自分の思い通りになったり、思惑が外れたり。そして行き着く先は幸せか不幸せか、豊かとか貧しいとかに分かれてゆく。そんなイメージで自分の人生を振り返ると暗中模索の中で判断してきた学生時代がある。常に場当たり的な判断をし混沌とした渦の中に埋もれていた。ところが混沌の中にも自分の住処を見つけた。それは仕事という場所だった。もちろんその中にも多くの迷いや間違った判断をすることもあったが、段々と歳を重ねると正しく、あるいは判断する事に慣れ未来を見据えて決断できるようになってくる。そしてそれは仕事上の判断だけではなく、自分の人生の生き方としての判断力も醸成されてきたように思う。特に65歳を過ぎてからは何が幸せなのか、何が豊かさなのかを常に自分に問いかけながら判断するようにしてきたと思う。
例えばお金と幸せ。世の中の多くの人はお金があるから幸せ、無いから不幸せと思う人が大半だと思う。確かにお金は無いよりあった方が良いと思う。しかし、あったからといって幸せになる保証はない。事実、大リーガーが引退後に自己破産する人は70%にも上るし、宝くじの高額当選者も同じように自己破産する人が大半だ。せっかくお金を得てもお金に対する考え方が出来ていなければ不幸になるということだ。つまりお金や物があることが幸せだと思う人の判断は行き着く先、幸せのゾーンに着地するとは限らないということだ。幸せになろうとするならばもっと違う判断軸を持たなければいけないのであろう。
自分もそう思っていた時代があった。そしてビジネスも大きくしなければ、成長させなければと遮二無二働いたと思う。しかし、どこまで行っても何か100%満足しないのだ。企業を上場させても、また思いあって上場廃止しても、億円単位の給与をもらっても、大きな家を建てても、そこが幸せだと感じることは出来なかった。身近なゴールがあってもクリアすればまた次のゴールが、そしてまた次のゴールへと自分を突き動かすエネルギーはあったが、幸せや豊かさをそんなものかなと勘違いしているだけで、本当に心を満たされたという気持ちにはなれなかった。どこまでいけば良いんだ、いくら稼げば良いんだ。と虚無感の中で問いかけていたのかもしれない。
そんな頃、ネットで調べて、米国在住の日本人心理カウンセラーの人と定期的に話をするようになった。彼女は50歳近い人でビジネスなどの経験はないが大学で心理学の資格をとった人である。月に2回ほど約1時間世間話をするが、時たまズバッと私の心を言い当ててくれたり、「こんなふうに思ってた方がいいよ」などとアドバイスをくれる。毎回ではない、たまにではあるが。もう数年間お世話になっているのでほぼ自分の心の変化はデータとして保存されているのだと思う。もちろん彼女のアドバイス的なことも為になるが、1時間話すことで自分がリセットされるという利点が大きいのだろうと自分なりに考えている。何かを判断するときに悩みがあったり、辛い時期であったり、あるいは逆に浮かれている時などに良い判断をできるだろうか?安易な判断をしたり、投げやりな判断をしてしまう可能性が高いと思う。そうならないように彼女と話す1時間は私の心を±0の座標に戻す時間だと思っている。自分が話すことで自分をリセットしてゆくのだ。相手はただ「云々」と聞いてくれるだけだがそれでいい。彼女曰く「世の中の80%の人は何らかの精神異常者」らしい。スティーブ・ジョブスも発達障害だったし。巷にうつ病の人は多い。特に経営者で成功する人ほど精神的な障害を抱えている人が多いらしい。わからないではない。一心不乱にビジネスに打ち込み、狩人のように成功をもぎ取り、しかもそれを継続できる人は最も精神異常者ではないだろうか。私もその分野に入っているそうだ。常に何か新しい発想が湧き、チャレンジし続ける。それが止まることや、うまくいかないことに腹をたて、更にエネルギーを注ぎ、成し得た頃にはもう次のことが湧いてくる。そんな状態の私に彼女はこう言った。
「高島さん、幸せって追い求めるものではなく、気づくことよ」と。「高島さんは気づいていないだろうけど、今までに過ごしてきた時間の中にたくさん幸せがあったはず。ただそれを見過ごしてきただけ。」
それからはしばらく葛藤があった。まだその心境に慣れないのだ。今まで走ってきたスピードとパワーをそういう状態にするには時間がかかる。しかし、その後2021年8月に社長を引退することになり時間的余裕ができた。しばらくは旅をしていたが、まだ自分は以前と形は違うが、旅に出れば何かが見つかるかもしれないと求め続けていたのである。2年間ほど旅をしたが見聞は広がったが何かそこに幸せを見つけたわけではなかった。しかし、少しずつ心が変化してゆくのはわかってきた。それは何気ない状況の時に「幸せだなぁ」と感じることが増えてきたのだ。カミさんと椅子を並べて朝のワイドショーを見ながら朝ごはんを食べている時、孫たちと遊んでいる時、親しい友人と飲んでいる時、そして孤独のグルメを楽しんでいる時、走ったり散歩したりしている時。瞬間、瞬間に「幸せ」という文字が浮かんでくるのだ。そう思う瞬間が増えてくると共に「こういうことかぁ」と幸せの意味がわかってきた。つまり恥ずかしいがこの歳になってやっと「幸せ」の価値観を感じてきたのだ。
毎日A級グルメを食べることも、高級車に乗ることも、ブランド物の洋服に身を包むことも、銀座で美しい女性と共に高い酒を飲むことも楽しいかもしれないが、それが毎日続けば自分にとっての幸せではなくなってくる。
美味しいC級グルメもある。都バスでしか味わえない街の景色もある。短パンにビーサンの気楽さもいい、地元の蕎麦屋で飲む日本酒もうまい。そんなことの方が「幸せ」を感じることが多いのである。
鬱積した気分の学生時代、もがいてもがいて育て上げた企業、引退後のリハビリを経て、やっと今感じる幸せの価値観。前半は一見自分史のような内容だが、それと共にどう自分の心が変化していったのか、また後半は今思う様々な価値観を述べたいと思う。
たくさんの若い経営者から「生き方がわからない」、また若者からは「夢が描けない」という言葉をよく聞く。また元気のない中高年の方を多く見かける。しかし、考え方次第で幸せへの判断ができるようになると思う。人生はあみだくじ。終わりよければすべてよし。
良い人生のゴールになりますように。
学生時代
・幼少〜小学生
戦後11年経った1956年(昭和31年)5月20日に自分は生まれた。父は地元の信用金庫、母は地元の県の土木事務所に勤めていた。母の実家は仕出し屋を営んでいたが、毎朝バスで自分を連れ実家近くで自分だけ降ろされ、日中は母の実家に預けられていた。祖父の膝の上に乗り、キセルから溢れるタバコの匂いと仕込みの魚の匂いが朧げながら記憶にある。3つ下の妹が生まれてからは母は土木事務所を辞め、地場産業である眼鏡のセル加工の内職を家で始めるようになった。地元の小学校に進んだが、学校から帰ると母の横で話をしながら宿題をしていた。その頃のシンナーの匂いが思い出される。母は6人兄弟の末っ子で勉強が好きで大学にも行きたかったらしいが家庭の事情で行けなかったことを思ってか、子供である自分には兎角「勉強しろ」とうるさかった。学校ではまずまずの成績だったと思うし、学級委員長を何度もやっていたし、クラス内ではそこそこにいたのかと思うが、2年生の時の通信簿に「悪の先導」をしていると書かれた。喧嘩をしていたわけではないが今だに何故そう書かれたのか覚えていないが、母に連れられ近所の級友の家に謝りに行ったことは覚えている。それよりも先生にそう書かれたことが悔しくて、その先生への信頼は無くなった。高学年になってからは何となくクラスはいくつかのグループに分かれたが、国語の時間だったろうか、自分の班に「どもり」の友人がいて、彼がどもりながら教科書を読むのをバカにする他のグループの生徒がいて、我慢できずに授業が終わるとすぐさまその生徒に馬乗りになり平手打ちをしに行った。
5年生の時に何人かと体育館の脇の方で多少危険な遊びをしていたら担任の女先生に全員並ばされ平手打ちをくらった(当時は体罰ではなかった)。しかしその後、「もうみんなわかったのなら先生と握手しよう。」と言われたが、自分だけは「平手打ち喰らって何で握手だよ」と思い、握手を断った。
当時は先生というものは絶対偉い人という意識が世間にあったようで、体罰含め怖かった存在だが、自分にはどうもそのように見えず、何故か尊敬に値せずな人達が多かった。
当時、遊び場は野山や学校のグラウンドであって、いつも自然に触れていた。近所の山に行くのが好きで台風あとに栗拾いに行ったり、小武器を作って鴨など鳥を打ちに行ったりした。また爆竹や花火をバラして火薬を新聞紙等できつく撒き、導線をつけ、山の岩の隙間に仕掛け岩を割ったりしていた。自然相手で遊ぶから、たまに朝クラスメイトの机の上に花が置いてあり、「○○君が川に落ちて亡くなった」とか池で溺れたとかの事故があり、小学校の間に何人かを亡くし、寂しい思いをしたのを覚えている。
当時、裕福な家庭ではなかったが、高度成長期真っ最中で父親の給料がどんどん上がり、家に冷蔵庫や洗濯機、テレビ、そして車が登場し生活がみるみる変わっていった。
また東京オリンピック、大阪万博、東海道新幹線開業などが拍車をかけ、日本はどんどん明るい未来に向かっていった。その後バブル崩壊の1990年頃まで約25年間で日本は世界第2位の経済大国になり、日本の歴史上最高の時代を迎えていった。我が家の暮らしもどんどん良くなり、父は新たな場所に家を新築し、妹2人と共に家族5人、そしてその後末っ子の弟が生まれた。
・中学校
中学校には地元の3つの小学校からの卒業生が集まっていたが、今までとは違う友人もでき、また部活も始まった。当時は中間テストや期末テストはその成績が張り出されたが、自分は240人中大体30位くらいではなかったろうか。特に英語ができずに苦労したが、2年生の英語の担任の先生が自分には本当に合わなかった。子供ながらに「教えるのが下手すぎる」と思いながらやる気にならないまま成績は下がっていったが、ある時、社会科の女先生と駆け落ちして学校からいなくなってしまった。今だに英語がままならないのはその先生のせいじゃないかと恨むが、その頃から完全に先生に対する信頼度は無くなっていった。
部活は卓球部に所属し3年時はキャプテンだったが同時に生徒会の役員もやっていた。当時は各部活の予算を生徒会で議論していたが、自分は「県大会での順位で配分すべきだ」と言い、県大会の順位の高い卓球部はそれまで廊下で練習していたが「体育館を使わせろ」と言い、占有していたバスケットボールやバレーボール部から卓球部が使う日をもぎ取った形になり、予算を含め大幅に卓球部は優位な位置に立った。ところが卓球部の顧問だった先生が生徒会の顧問もしており、自分がそう行動したものだから後日職員室に呼ばれ「君の言うこともわかるが、あまり強く出過ぎないでほどほどにしといてくれ」と言われてしまった。成績の高いクラブの予算と場所を与えるのは当たり前じゃないかという持論を否定され、またしても先生に対する尊敬は消えていった。実は当時人気があった野球部に入りたかったが、あまりに希望者が多く50m走と遠投の結果で入部を決めていたが、自分は50m走が遅く入部できなかった。仕方なく卓球部に入った経緯もあり、県大会における順位も野球部が下だったのでどこかにその腹いせもあったのかもしれない。
やがて高校進学という段になり、行きたい高校があったが担任の先生からは確実に合格する高校を推され、ほぼ全員が落ちることなく高校に進むという形だったが、今から思うとあれも不合格者を出すと担任の成績に影響するのだろう。いろんな理不尽さに気づく少年だったように思う。
ちょうど初恋は中学生だったが、1学年下に好きな子ができ、生徒会に入っている権限で自分の下にその子を採用し、広報担当で一緒に活動をするが、今から思うと策士的だったなと反省するが、なにぶんその子の母親と自分の母が仲が良く、その子にラブレターを渡した日に家に帰ったら母は知っていたという顛末で、ほぼ母に筒抜け状態だった。中学校になっても自然好きは変わらず、山を越えて25キロほど自転車を漕いで海まで遊びにいった。お粗末なテントを持って夏は何人かでキャンプに行き、軍手とドライバーを持って海中に潜ってサザエやトコブシや小さな蟹をとり、その場で焼いて食べたものだ。とにかく山や海に行くと我を忘れて遊んだように思う。何故か武器をよく作っていた。竹林があれば竹を切り弓を作り、矢は枯れたススキで先には傘の骨を斜めにカットした矢尻をつけ刺さるようにしていた。またいわゆるパチンコというゴムの威力で小石を飛ばすものを加工して、針金をU字型に曲げ先を斜めに切り刺さるようにした弾をいくつも作った。
U字型の弾は射つと必ず尖った方から飛んでゆき突き刺さる。友達数人で鴨がいる山の中の池に行き、みんなで総射撃をし鴨を得たりした。食用蛙と言われる牛蛙を獲って焼いて食べたりもした。今から思うと野蛮だが、そんな遊びが気に入っていた。
余談だが、中学1年生の時、マラソン大会がありゴール直前で目の前が黄色から真っ暗になり倒れてしまった。心臓が止まってしまったらしく、当時の校医の先生が人工呼吸をして助かったらしい。そんな中でハッキリと幽体離脱してゆく現象を見たのを覚えている。真っ暗な中を淡々と走ってゆく自分が前に倒れてゆくが、自分から抜け出すようにもう1人の自分が変わらずに淡々と前に走ってゆくのだ。その姿が段々と小さくなってゆくのを自分はスローモーションのように倒れながら見ているのである。最後まで見届けてはいなかったが、どんどん自分から抜け出たもう1人の自分は遠ざかってゆくのである。
翌日に母が学校に呼ばれ校医から説明を受け驚いた次第だが、あの時に自分の運命は終わっていたのかもしれないという現象に後々になって今の人生は拾い物だったのかもしれないなぁと考えるようになった。後々病院で検査入院をしたが、たいしたことではなく思春期にありがちな症状ぐらいで終わってしまった。
・高校時代
中学校の担任の先生の推薦で受けた高校では一応進学クラスという成績の良いクラスにいることができたが、将来どこの大学に入り、何を目指そうかなど想像も出来ずにのんびり過ごしていた。成績はクラス40人の中ではビリの方だったが、ある程度進みたい大学を決めてからは受験科目だけは少し勉強したせいか模擬試験で校内3番という成績を取ったことがあった。そしてその時担任の先生に「まぐれだな」と言われ、これまた先生を客観視していた自分は「先生、そこはさ『よく頑張ったな』だろうよ、その言葉でか弱い生徒は傷つくよ」と思っていた。3年の時に地学の授業があったが、その先生は「君達は地学が受験科目に無いのなら、何の勉強しててもいいぞ」と言ってくれたので自分は眠くて寝ていた。そしたら先生から「君はなんで寝ているんだ」と注意され「今朝方まで勉強したので眠くて」と応えたが、駄目だという。そこでカチンときた自分は「今勉強しようが、夜中に勉強しようが一緒じゃないですか、先生が自由にしていいというから寝ただけで、それが駄目なら最初から全員地学の勉強をさせれば良いじゃないですか?」と喰ってかかった。それ以降地学は全くやる気がなく、赤点のまま卒業した。
受験勉強とともに深夜放送を聴き、フォークソングにのめり込み、ギターを弾き、下駄を履き、バンカラ風を装っていた。また麻雀を覚え、学校の帰りや週末などは友人の家に泊まり込みで勉強のような麻雀のような時間を過ごしていた。当然のように酒もタバコもやっていたし、同じクラスに彼女もいた。
どこの大学に行きたいかよりもどこに行けるかで受験校を選んだ。中学2年の駆け落ち先生以来英語が苦手だった自分は英語の配点の多い大学は難しかった。もともと福井は関東より関西の大学に進む者が多く、親父は国公立にと言っていたが結果は滑り止めだと思っていた関西大学しか受からなかった。早く閉塞感のある福井を出たいと思っていたので何とか親に頼み込み関大に行くことを承諾してもらった。
・大学時代
滑り止めのつもりで入学した関大。当時は学生運動も盛んで竹槍を持ってヘルメット被った学生がなんか訳のわからないことを叫んでいた。滑り止めだったこともあり、やる気のないままの大学生時代がスタートした。たまたま新築の16部屋の下宿に入り、全員が新入生だったので下宿仲間と常につるんでいた。5万円しか仕送りがないので1.5万円の下宿代を払うともう1日千円くらいしか使えないが、結局バイトで足らない分を稼ぐしかなかった。また良からぬことに、下宿の隣に同じ大家さんの先輩たちが住む建物もあり、先輩の影響も多々受けた。結局毎日どこかの部屋で麻雀。週末は誰彼なく彼女が泊まりに来るという環境でとても勉強する環境ではなかった。いや、するつもりもなかった。入学した年の9月に奨学金15万をもらった。親からは3ヶ月分の生活費にしろと言われたが、東京の大学に進学した友人の家に遊びに行き、吉田拓郎の歌に出てきた原宿ペニーレーンへ行ったり東京を楽しんで約2週間ですっからかんになって大阪に戻った。それから年末までほぼ100円すらないような日々が続いた。毎日のように昼飯つきの工場のバイトに入り、夜は高速道路のサービスエリアのレストランで働き、つまみ食いで凌いだ。学校にも行かないものだからたまに授業に出てもさっぱりわからない。そして、経済学部のクラスでも附属高校から来た連中とか裕福な連中がカッコつけているのに馴染めず、バンカラ裏街道を歩むような生活だった。案の定1年で22単位しか取れず、「息子さんは4年で卒業できる見込みはありません」と親に知らせが届いた時には親にこっぴどく叱られた。
2年生からは何とか挽回すべく授業に出る日も増やしたが、相変わらずガテン系バイトが中心で稼いでは梅田で飲むを繰り返していた。付き合いもクラスの連中よりもバイト先の社会人といる方が心地良かった。リアリティのない大学より、人間臭い社会との関わりの方が魅力的だったのである。しかし、4年生はフルフルで授業を取り、何とかかんとか4年で卒業ができた(最後は先生への贈り物でギリギリ)。
しかし、今になって一番悔やまれるのは学生時代の時間かもしれない。ただただ学校に背を向け卑屈に働いては飲むを繰り返していたが、もっと先を見つめ、バックパッカーで世界を見るとか、何か打ち込むことがあれば多少は変わっていたのにと思う。視野も狭く、目先の満足の為に堕落した4年間を過ごしてしまった。そんな一番多感な時間に得たものはリアリティの魅力だったのかもしれない。経済原論を読んでも一銭にもならない。しかし自分の身体を使い重労働すればそれなりのお金が入る。そんな働くというリアリティには魅力を感じていた。
大学1年の時にカミさんと知り合い、それ以来50年近く一緒にいるが当時の自分はカミさんにはどう映っていたのだろう。携帯もメールもない時代に週1会っていたと思うが、青くさい恋愛をしていたように思う。ある時など、下宿に来たカミさんがあまりの肉体労働で疲労困憊の顔をしていた自分がわからなかったことがあった。取り憑かれるように社会の渦にのめり込んでいた顔だったのだろう。
やがて就活をする事になるが、どこか特定の業種に行きたいわけでもなく、ただ長男の立場なのでいずれは福井に帰らなきゃいけないなぁと思いながら、福井に縁があるような企業を受けるが、成績表を見た企業の人にはこぞって「成績が悪いなぁ」と言われた。それでもとある銀行では面接まで何とかクリアし「あと試験さえ及第点を取れば大丈夫だ」と言われるが、その試験で落とされるという始末で本当に勉強には縁がなかった。
大学4年の晩秋の頃、学校の掲示板にあった福井県本社の「マルイチセーリング株式会社」という聞いたこともない会社の門を叩いてみる事にした。本社は福井県今立郡の家具メーカーだ。行ったこともない地名だがその会社の大阪営業所に行き、外人の所長の面接を受け、その場で内定をもらったが、今までの就職試験に比べ、あまりにあっけなくの採用だったので拍子抜けしたような感じだったが、取り敢えずは決まって良かったという安堵感だった。後にも先にもその一社だけが採用してくれたのだ。
総じて学生時代に何かずば抜けたものがあるわけではなく、平々凡々と過ごしてきたように思うが何事にも達観している自分がいたように思う。裏を返せば自分なりの独自の感性が自分を動かしていたわけだが、何か噴火しきれないマグマのようなものが心の底にうごめいていたのは確かだ。噴火できない鬱積がジレンマと共に自分を支配していた。
サラリーマン時代
・社会人デビュー(大阪営業所)
大学を不甲斐ない成績で何とか4年で卒業した自分は家具メーカーに就職した。特に家具が好きだったわけでもなく、インテリアに造詣があるわけでもなかったが、大学入学の時と同じように、その会社しか受からなかったのである。当初は大阪営業所へ配属になったが、いずれは福井にある本社に戻り経理か総務でもやろうかなぐらいの気持ちで入社したが、4月の入社までヒマなので、4月まではバイトとして働くことにした。当時の営業所長はマレーシア人の人で木材の縁があってこの会社に入社したとのことだった。また次長という人は所長より年配のちょっと番頭さん的な人で、その人が直属の上司だった。たまたま同期入社の1人含め約8人の事務所だった。バイト期間中の仕事といえば、上司と同行して関西中の家具屋さんを訪問することだった。家具屋さんには自社製品が並べてあり、自社製品が一つでも多く展示してもらえるように、またその商品がたくさん回転するように販促するのが仕事だった。最初はただわからないまま上司に「この商品、○○家具屋さんに届けといて」「〇〇家具屋さんの集金行ってきて」など御用聞きのようなことをやっていたが、いつになったら営業を教えてくれるんだろうと思いながら淡々と用事を済ませていた。そのうち「〇〇家具屋に行ってこの商品勧めてきて」とか「この組み立てテーブル何個か積んでいって勧めてきて」と言われ営業車で家具屋さんに行くが「この商品どうですか?」「今は売り場がいっぱいだから入らんなぁ」「今は要らんわ」などと言われ営業所に帰った。そのままのことを日報に書いて報告する日々が続いた。その段階でもまだいつ営業を教えてくれるのかなぁと思っていたが、実はそれが営業だった。「どうですか?」「要らんわ」「ああ、そうですか」で帰ってしまっていたが、先輩に教えられたのか「ああ、そういうこと!これ売り込みしないといけないんや。」と入社して1月くらい経った頃にやっと気づいた。それからは我流ながらも何とか売り上げを上げようと頑張った。何よりもリアリティーの無かった大学時代からすれば水を得た魚のような心境だった。全ての自分の行動に反応がある。
このリアリティーこそが自分の生き甲斐だと思った。
しかし、今から思うと無茶なことをやっていたし、下手な営業マンだったなぁと思い出すと恥ずかしくなる。大阪の家具屋さんは中小企業が多かったせいか営業する相手の人はほとんどが課長以上で中には専務とか社長とかもいたが、若造が何も知らないで偉そうに話しても取り合ってくれなかったり、怒られたりしたものだ。しかし、中には面倒見のいい取引先の人もいて、教えてくれたり、中には飲みに連れていってくれたり、ありがたい人たちに随分お世話になった。ある時は「〇〇課長さん、うちのテーブル何枚か降ろしていっていいでしょうか?」「あぁ、倉庫見て適当に置いてって」と言われ、内心「え、いいの、ほんと?」と思い車に積んでいたテーブルを全て降ろしていったが、翌日その課長さんから電話があり「誰が目一杯降ろしていいって言った?」と叱られた。つまり先方は「君が週1回くるんだったら1週間で売れる分を補充しときなさい。それを自分で考えろ。」という意味だった。即、謝りがてら商品を適量になるよう引き取りに行ったが、そこで「高島君なぁ…」といろいろ家具屋のビジネスについて教えてくれるのである。松岡さんという人だったが若造相手にいろいろお世話になった。またその頃から営業に関する本を買っては読むようにしていたが「商品の前に自分を売り込む」ということが印象に残っていた。ある時その松岡さんが勤める店に日曜日に販売応援に行くことになった。その頃は家具屋さんに合わせ、週末は販売応援で平日に休みを取ることが多かった。早く店に着いたが店は開いておらず、仕方がないので裏の倉庫にあったホースを勝手に取り出し、店頭の水撒きや掃除をしていた。その後次々と出社してくる社員の人に「おはようございます、〇〇の高島です」と自分の名前を覚えてもらおうと張り切ったが、殆どの人に胡散臭そうに「誰やこいつ?」という顔をされたが、朝礼の時にその松岡さんが自分のことを全員の前で紹介してくれ、店長からも「お前、かわった奴やなぁ」と言われながらも取引先に馴染んでいった。
自分でも恥ずかしいくらいの失態は多々あった。ある時は次長と九州出張に行き、ある取引先の人と食事をすることになり、次長は酒を飲まないので1軒で帰ったが、飲める自分は調子に乗りその家具屋さんの古賀さんという課長としこたま焼酎を飲んでしまった。で、次の日昼頃目が覚めたら次長の手紙が置いてあり、「今日はもういいから大阪に帰りなさい」と。全くのお調子者で恥ずかしかったが、二日酔いのボロボロの心境で大阪に帰った。
当時の所長は外人だったが、営業というものを理論的に教えてくれる人だったので自分的には番頭タイプの次長より好感を持っていた。ランチェスターの法則や、X理論・Y理論など今でも印象に残っているし、自分もそういう本をたくさん読んだ。カーネギーの「人を動かす」はとても参考になったものだ。
これも印象的な失態だったがある取引先が自社商品のコピー商品(大手メーカー品)を扱っていたので再三その商品を売り場から省いて欲しいとその家具屋さんの専務に訴えていたがなかなか聞いてくれずにいた。ある時訪問するとその大手メーカーの幹部の人が専務と話しているのを見つけ、わざとそのメーカーの人に聞こえるように「専務、いい加減あのパクリ商品下げてくださいよー」と言った。そしたらそのメーカーの人が帰った後専務が烈火の如く「なんであのメーカーの前でそんなこと言うんだ!」と怒り出したが、こちらもそれで「この人はいくら言っても下げるつもりはないんだ」と悟り、売り言葉に買い言葉で「だったらいいですよ。理解してもらえないのなら取引やめます」と言い放ち、会社に連絡をし、同僚に来てもらい全商品引き上げてしまった。自分では言うことを聞いてくれない取引先が無くなったことで済々しながら所に戻った。外人の上司にその顛末を報告すると「そうか、よく君は会社の方針を貫き、相手の専務さんにその訴えをした行為は立派だ。」と褒めてくれたので「あー良かった」と思う間もなく所長は「もう一度取引してきなさい」と言った。「はぁ?今なんと?」と思ったが、すかさず「君が行った行為は自己満足なだけだ、過去からの両社の信頼関係や先輩が築いてきたものを失ってきた行為は褒められたものではない」と叱られた。確かに自分には腹立たしい取引先だった。それを切ることで満足をしたのだ。もっとその専務の信頼を得ていれば違ったのかもしれない。自分が相手にされていなかったのはまだまだ自分の努力が足らなかっただけなのだ。と一晩反省し、翌日その専務宛に頭を下げに行った。店の全ての人から「何しに来たんだ?」のような白い目で見られたが専務に「申し訳ありませんでした」と平身低頭、頭を下げた。そして専務は「君は商品を引き上げて満足したかもしれないが、ある会社と取引が無くなるというのは他の会社から見れば何かあったのかと信用不和に繋がることまで考えていたのか?」など厳しい言葉を受けたが。同時に「私も君がそこまで自社のことを思っていたとは知らなかったよ」と初めて自分のことを認めてくれた。「しかし、従業員たちも怒っているし、今すぐ取引再開するわけにはいかない。もう半年、一年、ほとぼりが下がる頃にまた来なさい。」と言ってくれた。高島郁夫24歳の春の出来事だが、今でも脳裏に焼き付いている出来事だ。その後秋に東京に転勤になるが、大阪時代は良くも悪くも思い出深い地だった。ど素人同然の営業マンだったのに本当にいろんな人に可愛がってもらった。
また遊びも半端なく遊んでいたように思う。会社が四ツ橋にあったせいかミナミに近く、2日と明けず踊りに行っていたし、週末は朝まで遊んでそのまま会社の営業車で酔っ払い運転で家に帰っていた。帰るあてのないその場で知り合った男女何人かを乗せて家に泊まらせたこともあったが、朝になって雑魚寝しているみんなを置いて販売応援に出かけていた。
あまりあるエネルギーを仕事と遊びに注ぎ込み、それでもまだ余っているような若さがあった。カミさんとは付き合ってはいたが、それほど会うこともなく社会に目が向いていた。
ただ寂しいことに、現在までこの数十年間で業界は変化し、その頃お世話になった家具屋さんはほぼ無くなってしまった。お世話になった人たちはどこでどうしているのかわからないが人情と笑いと涙と泥にまみれた5年半の大阪住まいに別れを告げる事になった。
・東京
どうせいずれは福井に帰るんだから一度東京に行ってからでも遅くないかという単純な思いと、ちょっと大阪の濃い人間関係も一度スッキリしたいなという思いで東京に出てきた。
仕事は大阪時代と変わらずだが、東京は家具屋といえども規模が大きく、大阪のような泥臭い営業のやり方ではなかったが、やはり人間関係というのはどんな営業においても大事な要素ではあった。しばらくして東京営業所次長に、そして所長になり部下も多い時には15人以上抱える事になり、営業力もさることながらマネジメント力を身につけざるを得なかった。当初はよくありがちな営業上がりの軍曹みたいなもので「俺について来い、ついてこれない奴は死ね」くらいの勢いでチームを引っ張っていったが、中には当然落ちこぼれて辞めてゆく部下もいたが「仕方ないな、ついてこられないなら」と思っていた。しかし、あまりに人が辞めるので彼らの立場で考えてみたことがある。「彼らは辞めたくて入って来たんじゃないだろうになぁ、それが辞めることになってしまったのはひょっとしたら自分にも責任があるのじゃないだろうか」と思うようになり、マネジメントのやり方を変えてみた。
毎日、営業マンが1人残らず所に戻るまで待っていたのと、翌朝までに日報に毎日赤ペンを入れるようにした。もちろん自分が営業に行くこともあるし、営業マンと同行することもあるが、それは一部の大手取引先や、百貨店などだった。
その頃一番お世話になったのは現匠大塚家具社長の大塚勝久さんである。当時の大塚家具は上場を果たし隆盛極まる家具専門店であったし、中高級路線を志向していた。ただ当時の大塚家具は勢いもあるが反面、納入メーカーに対して厳しい要求の連続だった。その丁々発止の交渉が思い出深く記憶に残っている。常に在庫を積んでくれる取引先だったので一度の納品額が大きいが、メーカーが設定する価格を守ってくれない取引先であった。今でこそメーカーが価格を小売店に強いることは出来なくなってしまったが、当時は全国同一価格が原則であった。しかし大塚家具は安く仕入れるが店頭表示を20%ほど安く表示をするので、他の取引先からよく「大塚家具が値引きしているぞ」とクレームを頂戴した。競合他社も同じような状況であったが、ある日大塚社長と話す機会があり「大塚家具ほどの絶大な力がありながら何故値引きをしなければやっていけないのか?これだけ我々が一生懸命モノづくりをしているのに値引きをされるのは、我々に対するいじめですよ。」などと訴えているうちに感極まって悔し涙が出てしまった。しかし、その翌週に自社の商品だけが定価に戻っていた。競合他社からも「どうやって戻したんだ?」とか聞かれたが、ただただ自分の真剣な主張を大塚社長が聞いてくれたのである。普段は社内外でワンマン経営者として恐れ多い人であったが、何かと自分は懐に飛び込んでいった分、目をかけてくれた。自社商品の展示会にも社長宛に手紙を書き来ていただいた。もちろんバイヤーの人を飛び越えて社長宛に営業するわけだからそれらの人達は嫌だったろうが、そんな気配も見えないくらい社長の絶対権限が大きい取引先だった。神奈川県が商圏だった「家具の大正堂」、栃木県の「東京インテリア」、丸井などにもお世話になったし、記憶に残る交渉場面がいくつも思い出されるが、大阪の新人時代にただ焦るばかりで空回りしていた頃に比べ、経験も積み且つ相手の懐に飛び込み自分のカラーがうまく出せる取引先が増え、意気揚々としていた30歳前後であった。大きな会社ではなかったが、部長になり、社内での存在感も増していったが、同族会社故の理不尽さも感じるようになっていた。そして社長に気に入られることなどには無頓着であったし、ただ正しいことを主張していた。その分、社長一族の方々には煙たい存在になっていただろうとも思うが、社長の為ではなく、会社の為を考えて行動すれば、結果社長の為になるとの思いしかなかったので、ずいぶん生意気なことも言っていたのだろうとその後反省した次第である。
起業、上場、非上場
・起業
勤めていた家具メーカーで新規事業をやろうという話になり、家具専門店だけではなく公共施設やゴルフ場、ホテルなどに家具を納める事業の素案をまとめたが、誰がやるという話になり結局自分がその事業をやることになった。多少勢い余っていた社内での居場所も居心地悪い感じもしていたし、自分で考えた事業でもあったのでやってみようという気持ちになり200万円を自分で用立て、1000万円の資本金で1990年7月に株式会社BALSという会社を立ち上げた。社長は親会社の社長が兼務し、自分は常務という立場であったが、実質はほぼ任されていた。会社からの条件は3年以内の黒字化、資金は5千万円までという条件だった。事業計画は立てたものの3人しかいない会社で実際に行動するのはほぼ自分しかいない状況だった。特にノウハウがあるわけでもなく、やることと言ったら設計事務所やゼネコンなどの飛び込み営業しかなかった。「全国設計事務所一覧」という本を買い、今日は品川、明日は恵比寿みたいにエリアを決め毎日10キロほど歩いて飛び込みセールスをして歩いた。今から考えればもっと違うやり方もあったのだろうが、売上のたたない毎日を何かしなければという思いで歩くしかなかったというのが本音だ。暑い夏の日も、寒い冬の日もしらみつぶしのように事務所に飛び込みをかけていった。「事務所にいても売上は来ない、歩いて訪問すれば何かあるかもしれない」という思いだったが、快く話を聞いてくれるところもなくほぼ門前払いのような扱いだった。が、知り合いの紹介もあり岡山県のゴルフ場に家具一式を納めたり、商社の役員室に高級な家具を納入したりと少しは実績があったが赤字状態を拭えるほどではなかった。赤坂にショールームを開設したり、カタログを作ったりで親会社から言われていた5千万円はあっという間に消えてしまった。よく親会社も許してくれたと思うが、3年間で使ったお金は1億3千万円、帳簿上の赤字は8千万円にのぼっていた。親会社からの調達ができたからこそ存続していたわけで、独立した会社だったらとっくに倒産していた。しかし親会社からも「こんな会社もう要らないから買い取るかなんとかしろ」くらいに言われてもいた。そんなところにショールームを天王洲アイルに移転しないかという話が来たのである。当時誰も知らないエリアで品川駅から徒歩10分くらいの場所にベイエリア開発の第1弾として三菱商事が開発するエリアであった。オフィス、ホテル、住宅、劇場などで昼間人口が8千人、モノレールの新駅が出来る街ができるらしい。
そんな街にショールームをつくってもなぁと思っていたが、「売上のない日々の状況を思うと1円でもいいから毎日売り上げがある小売をやったらどうかなぁ」と思うようになった。本当に藁をも掴む思いだったのである。提示された場所は1階の65坪。
・Francfranc誕生
65坪というスペースで何をやろうか?それまで約14年間家具業界を見てきて、やはり気になるのは客数の少なさだった。都心の家具屋といえども土日中心で販売員は男性、販売も最終的には値引き勝負。そんな今まで世話になった業界だったがこれからは全く違う時代になるような予感もあった。その頃欧米ではホームファッションやホームファニシングという業態が台頭してきつつあるということも知っていた。まずは昼間人口8千人の天王洲アイルで半分としても4千人の女性、そしてその約半分の20代の女性に絞ろうと思い、「25歳の都会に1人暮らしで住む女性」という明確な顧客層をターゲットに設定した。当時家具屋はそんなターゲット設定などする店はなく、郊外の広い売り場にただたくさんの家具を並べているだけだったが、丸井だけは違った。当時丸井はインテリアのウェイトが大きい小売店だったが、家具部長だった亀山さんという人に「丸井はA子ちゃんというターゲットを明確に設定している」と聞いたことがあった。それが気になっていて65坪という狭い店だからこそ25歳に絞ろうということにした。当時社内には偶然にも3人の25歳の社員がいた。彼女達に「自分達の生活の身の回りに欲しいものを品揃えにしよう」と伝えたので商品選びにそれほど苦労することなく集めることはできた。テイストはフレンチカントリースタイル。が、しかしマーチャンダイジングやブランディングなどの知識もなく、ただ集めただけで1号店のオープンを迎えた。1992年7月20日のことである。初日の売り上げは17万円だった。今まで売上のたつ日が何ヶ月に一度のような状況の中で日銭である17万円はその価値が何倍にも見えるような金額だった。次の日も次の日も売上が上がるなんて何とリアリティがある仕事なのか、また自分達の揃えた商品が売れていくそのダイナミズムにすっかりと惚れ込んでいった。
ベイエリア開発の話題性も後押しし、たくさんの人が訪れる観光地のようになったが、順調に売上も増え、12月には1500万円ほどの売上になった。1号店であるし、まだ業態としても珍しかったせいもあり、マスコミにも多くの取材を受け人気店になっていた。
その1年後に横浜にランドマークプラザが出来るという話題があり、そのデベロッパーである三菱地所からぜひ出店をという話になった。が。しかし1号店こそ親会社の関係の中で来た話だったので店を出せたが、2号店を出せる資金など1円も余裕のない状態だった。
が、しかし提示された場所はいい場所で、しかも施設は天王洲アイルより大きいし、交通の便も良さげだ、多分間違いなくうまくいくと思ったがお金がない。しかし、デベロッパーも大会社である。保証金、内装、全て面倒見てくれるという条件になった。もちろん家賃に上乗せで第2家賃という形で毎月返済するのだが、初期投資は0円で済む。そんな条件になり、私は親会社に黙って契約を進めてしまった。後になり親会社からはお叱りを受けたが、もう後の祭りだ。強引に進めたが結果は予想以上だった。80坪の店だが天王洲より更に効率のいい売上だった。12月には2700万の売上でてんやわんやの忙しさだったが想像以上の利益に結びついた。物販は8時で閉店だが、飲食は11時までだというので、カフェを併設したが8時以降はバーとしてアルコール類を提供し、カフェ部分だけは11時まで営業をした。自分は夕方までは天王洲アイルにいて、夕方にランドマークに行き、8時からはバーテンダーとして働いた。毎日9時から夜の12時まで働いた。しかし、毎日お金が入り、月に数千万円の売上がある小売にどんどん傾倒し、それまでのビジネスは縮小させていった。
しかし、3号店である小手指店が失敗した。これまたイニシャルコストのかからない出店だったので飛びついてしまったがやはり場所が所沢では客層が違いすぎる。それまでは観光地のような場所で地元ではない人達がお客様だったが、小手指は根っからの地元のお客様中心だ。つまり今まではハレを買いに来ていただいていたが、3号店はリアルな生活を買いに来ている。と、その違いを感じ違約金を払って早々と撤退した。そして4号店は表参道だった。今はCHANELの場所だが、当時ビブレというファッションビルがあり、その地下に出店をした。その店もそれなりの売上をつくり、会社の黒字がどんどん増えていった。その後はパルコやルミネなどいわゆるファッションビルに出店し、どこの店もまずまずの売上をつくり、会社創業6年目にして累損一層、親会社からの借金も返済することが出来、自分は独立への交渉をすることにした。3年目まではボロボロだった会社を「こんな会社要らないからなんとかしろ!」と言われていた言葉通り、3千万の増資を持ちかけ4千万の資本金にし、80%の株を持つ筆頭株主になり、それまでお世話になった親会社から独立する道を選んだ。しかし、それまでお世話になった縁もあるし、何よりもきっかけをもらえたのは親会社があってのことだ。またそれまでキャッシュフロー含め財務諸表を教えてくれた当時の専務にも随分お世話になった。その分として、その後3年間ほど経営指導料名目で毎月数百万円を支払い続けた。
・独立
親会社がなくなり、独立した年は1996年。自分が40歳の時だ。当時の売り上げがいくらだったかは忘れたが数十億円ではなかったろうか。それまで約6年間、特に何か縛りがあった訳ではないが、月1回は報告義務があり業績や経営数値全般に渡り報告をしてきた。また銀行等も付き合いはあるが、やはり親会社管轄の銀行であり、子会社の身では勝手な調達も投資も出来なかったが、そういうしがらみも一切なくなる喜びはひとしおだったが、これからの全責任と権限が自分にあるという認識はこの時から意識するようになった。やはりオーナーという立場にならないと体感しないものだとはっきりと理解するようになった。
それから3、4年で売上は100億円を超すことになったが、小売というものは何かと資金繰りが大変である。FrancfrancはいわゆるSPAという製造型小売業で常にオリジナル商品の在庫を抱える商売であった。店舗を出すにも保証金、内装費、店頭在庫、開業費、店頭スタッフとすぐに1億円近いお金が消えてゆく。100億円を超すまでには毎年10店舗、20店舗と店舗を増やしてきたので、たまに儲かるはずの店が外れて赤字になると途端に資金繰りに影響した。大きな資金難は3度ほどあったように記憶しているが、自転車操業のようにどんどん攻め続ける場合はそういう状況に陥るので、いろんな工夫をしたものだ。特に赤字の店舗には厳しく対応した。もちろん出店するまではいろいろ諸条件を精緻するが、出店コストは1年以内の回収というのを掲げた。他の小売業は知らないが1年と決めてしまえばそれまでだ。1年以内に回収できれば借入を増やす必要もない。もちろん1年に何店舗も出せば、それより長い回収もあれば、短い場合もあるが、総合して1年以内に決めたのは成長段階においてはとても良い決断だったし、お金が無い中での工夫だった。また3ヶ月赤字が続いたら退店候補にあげいろいろ対策をするが、それでもあと3ヶ月ダメだったら退店することにした。勿体無いと思うかもしれないが、赤字店舗をそのままにしておく方がボディブローのように効いてくる。ダメはダメと割り切る方がスピーディーな経営ができる。淡々と書いているが様々な苦労の末に会得したナレッジだった。それ以前には日別資金繰り表を作って毎月ギリギリのところで管理していたが、やはり企業というのはそれなりに安定するまでは社長の仕事の大半は資金繰りだと思う。赤字黒字よりもキャッシュが有るか無いか、これをいかにコントロールするかを上場するまで本当に苦労しながらやっていたのが昨日のように感じる。そんな会社だったから銀行だけではなく証券市場からも調達をと思い、上場を目指したのが売上100億円前後の時である。
・上場
証券会社の紹介で監査法人をお願いした時に言われたのが「本当にキレイな会社ですね」だった。つまり社長個人との公私混同のトランザクションも無いし、在庫の管理もきちんと行われているしで、殆ど会計的に問題はなかったように思う。これはたまたま親会社の元、毎月の状況をいつも正確な数字で処理していたのと、何となくではあるが、自分にとって会社とは自分の作品であり公明正大でなくてはならないという思いがどこかにあったからだと思う。従って資金繰りの大変な時には自分の給与は取らずに、しかもサラ金から個人的に借りてでも従業員の給与はキチンと払ってきたが、逆に自分が個人的に会社から借入したことは一度もなかったし、疾しい会計処理は1つもなかったと思う。
そう大きなトラブルもなく2002年に当時の店頭市場に上場することができた。会社設立12年目、独立して6年目、46歳の時であった。それまでは個人保証もしていたし、個人での銀行借り入れもあったし、いろんな苦労がやっと報われたという印象だったし、自分の人生が初めて黒転(黒字転換)したと思った。上場時には多少株を売り出し、それなりのキャッシュが入ってくるが、そんなに大きな売り出しもしなかったので確か10数億円くらいが入ってきたのだろうか。確か自宅を建てたり、他に不動産投資をしたりでそれほど蓄えができた感じはなかったように思う。もちろん自社株の資産価値はそれなりにあるものだが、上場後に安易に売出できるようなものではない。その後場を変え2006年には晴れて1部上場企業になったのである。ちょうど50歳の年であった。勉強しなかった大学生活や、波瀾万丈なサラリーマン時代、資金繰りに奔走していた創業時代などの思いが巡るが、ようやく届いた安堵感、親に対しても結局福井に戻ることはなかった長男としての責任放棄も許してくれるであろうと思っていた。その後3年間ほど売上は順調に伸びていたが2009年にリーマンショックが訪れた。そういう経済的異変は初めての経験だったので身をかまえてしばらくはジッとしていようと思い、出店もせず攻めることを止め守りに入った。その為会社は無借金になり超健全な会社になった。しかしである、業績が下がり出したのである。それから5年間に渡り迷走していた。そして2015年には赤字を計上してしまった。今から思うとリーマンショックがあろうと常に経営は攻めと守りをバランスよく行わなければいけないのである。あの時の萎縮した経営がブランド力を削ぎ落としてしまった。おまけに活路を海外に求め、香港、中国、シンガポール、FCで韓国、台湾とアジア各地に店舗を設けたが香港以外は定着することなく、後に大きな特損を出し退店した。また同時に投資家に対する説明責任を含め機動的な経営を求め、MBOにて上場廃止を決断した。2012年のことである。
・株主総会
上場企業の場合、多くの株主に向け総会を開かなければならない。2002年から2012年まで10回の株主総会を開いたわけだが、1回目の参加者は7人であった。せっかく準備もし、緊張感の中で開催したのに拍子抜けした感じだった。2回目は20人。一般的には株主からの追及が無いよう、また早く終わるようにしがちだが、せっかく株主さんにわざわざ足を運んで来てもらうわけだから、出来るだけ対話をしたいと思うようになり、土曜日の開催にした。また商品を知っていただく為にもお土産として3千円相当の新商品を配る事にした。それから一気に人数が増えた。500人、1000人と増え、最大1700人の株主さんに来ていただいた。もちろんお土産目当ての方もいるのはわかっていたが、それでも総会は活発に意見が出て賑やかになった。想定問答集などもあるが、全て自分の言葉で答えるようにしたし、毎回前席に座っていらっしゃる常連の方々は名前も覚え、親しげに話しかけた。自分は全ての質問に答えるようにし、時間切れで遮ることはしなかった。そうすると不思議なことに総会屋的な質問や理不尽な言葉を浴びることも無かったし、仮にそんな株主がいても、他の株主さんがそれを制してくれるような意見を言ってくれた。冒頭から「全質問に答えさせていただきます。例え夜を徹しようと。」と言ってあったが、さすがに昼頃には皆さんお腹も空いて質問も無くなった。余談だが、終了後株主さんと一緒に写真を撮ったりもした。株にお金を投じ買っていただき、会場にまでわざわざ足を運んでいただいている人に温かく、そして真心を込めて対応させていただくのは社長として当然の義務だと思っていたし、自分を知っていただく、つまり会社ではなく人に投資していただくことも想定しながら対応させていただいた。今でも思うが株主さんは敵ではない。応援者なのだ。他の会社の総会にも出向いた事があるが、上手にやられている社長さんは意外に少ないものだ。
・非上場
思えば2009年のリーマンショックへの対応間違いが全てであった。何を恐れたのか守りに入り、ブランディングや商品開発など攻めに関することに力を入れなかった。いっときバランスシートは良くなったが、やはり利益が出なければ財務も悪くなっていく。おまけにその取り返しを海外に求めたり、再度海外での上場を目指し商品本部を香港に移したり、いろいろ手を打ったが、全て徒労に終わってしまった。自分も香港に移住し、これからはアジアを開拓しようと意気込んでいたが、結果が伴うことはなかった。そんな時、先輩経営者から「日本のFrancfrancを見ないとダメだよ、日本のFrancfrancはガタガタだよ」と忠告を受けた。そして日本に帰るたびに店をまわり、改めて足元の状況を立て直さないといけないと思い始め日本に戻った。ようやく2016年には利益も大きく伸長したが、2018年にはまた赤字になるなど安定しないままの経営だった。非上場で株主は自分とセブン&アイホールディングスに変わった。多くの株主相手への対応はしなくても良くなったが、採用面への影響や従業員の気持ちの部分では多少は影響があったのかもしれない。
上場するにはタフな作業をこなさなければいけないし、本業に関係のないコストも相当かかるが、やはり上場企業と非上場企業では経営の精度が違うと思う。小売業で言えば在庫の取り扱いである。特に旬な商品を扱う場合は、その評価をどう見るかのルールづくりが必要だ。いくら高く仕入れようが、売れない商品であればその評価を下げていかなくてはいけない。半年、1年単位で評価を下げるたびに利益は飛んでゆく。そういう評価基準が非上場企業では曖昧だ。1度上場しているのでその辺のルールは守りながら、きちんと監査法人の監査も受けることは非上場後も継続していた。
しかし、改めて思うが2009年からの約10年間、自分の経営者としての成績は×である。一言で言えば経営の基本の基を忘れていた。商品、店舗、人材、お客様に関わる全てのタッチポイントに最大のパワーをかけなければいけない。飽きられたら終わりだ。
・ブランディング
Francfrancではブランドという意識を常に持っていた。なぜならそれこそが付加価値の源泉だからだ。約60%の粗利を頂いているが、おそらく日本の小売業ではトップクラスではないだろうか。もちろん世界を見ればラグジュアリーブランドのように80%を超える粗利を誇るブランドもあるが、あくまで客単価4000円ほどで年間1千万人のお買い上げ客のビジネスだ。30年という歴史の中では何度かブランド意識が薄れた事があった。それは絞り込んだ顧客設定をつい広げようとするからだ。女性をターゲットにしたら次は子供とか男性とか、あるいはシンプルな商品ラインを増やすなど、つい間口を広げたら売上が増えるような錯覚に陥るのである。しかし、いつしかそれを戒めるようにした。結局は「顧客設定を絞れば絞るほど共感者を生む」という事実が分かったからである。一見矛盾するようだが、いかに共感者を増やすか。それは間口を広げることではなく絞ることだと理解するようになった。もちろんある程度の商品数量はいるが、テイストやイメージは絞り込んだほうがいい。結局間口を広げすぎて何屋かわからなくなるのが一番怖い。Francfrancは「カワイイ」屋だと思っている。そのカワイイを常に進化、深化、変化させ続けることで鮮度を保ちながら他社の追随を許さない事がブランディングの最大の秘訣だ。その為によく言っていた事がある。「商品の魅力は売れるか売れないかだけの側面ではない」ということだ。例えて言うと人の価値は「仕事ができる、勉強ができるだけですか?」ということと同じだ。笑顔が素敵だったり、親切だったりも人の価値だ。商品で言えば、Francfrancには売れる商品もあるが、魅せる商品もある。ピンクのストライプのソファを買う人は少ない。しかし、そのソファが店頭を飾るだけでお客様は「わぁー」と言ってくれる。その掴みが大事だ。店舗を訪れる際はその第一印象があるか無いかがとても重要だ。とかく企業が大きくなると理論優先になり、商品で言えば販売額や、数量が優劣の基準になりがちだ。しかし、売れ筋ばかりが置いてある売り場はつまらない。つまらない店になり、来店客数が減り、相対的に売上が落ちては本末転倒である。そのバランスは理屈ではない。Francfranc創業の頃からの暗黙知である。それを敢えて形式知にしようとしなくてもいいが、失ってはいけないものである。パリのエルメスの本店に行けば馬具が売っている。いまさら馬具がそれほど売れるとは思わないが、祖業である馬具製品があることでエルメスの歴史や品質、そして信頼がそこにあるのである。それがブランドというものの真髄ではないだろうか。今や地方に行けば大型の店舗がたくさんあるが、大型すぎて何屋かわからない。ドラッグストアなのに食品や日用品も置いている。専門店の殻を捨て専門外の商品を扱うことによって売上拡大を目指しているのだろうが、専門性を捨てて凡庸化してゆく姿はかつてのスーパーマーケットと同じ運命を歩むのではと危惧している。
・粗利の考え方
Francfrancでは約60%の粗利を頂いている。通常の小売店では例えば1000円の売値で500円で仕入れていたものを交渉して400円に下がると売値を800円にして他店より安くし、販売数量を多くしようとする。結果粗利率は同じだ。しかし、Francfrancの場合は安くなった100円を使って更に商品を良く出来ないかを考える。100円でラインストーンをあしらってみようとか、刺繍を入れようとかだ。そうやって商品を良くして粗利を取れるようにしている。生鮮食品のように今日仕入れて今日売り切るような商売なら価格の優位性は多分に影響するが、正直Francfrancには競争相手がいないに等しい。良い商品を作ることに専念しなければいけないし、半年後の商品を大量に発注し在庫を抱えなければいけないし、売り切れるように販売計画も綿密にする必要がある。そのリスクたるや相当なものだ。そこに価格ではなく付加価値の高い商品を作らなければいけない理由がある。売上とは予測不可能なものでもあるが粗利というのは意思だと思う。値引きだけでお客様は商品を買うわけではない。Francfrancの場合、価格の重要性は3番目だ。1に素敵かどうか、2に品質がどうかだ。例えば中国の工場に行けば、サンプル品などがたくさん置いてある。マグカップなどそのままの商品をオーダーすれば2ドルくらいで仕入れられるだろう。しかし、それでは何ら付加価値をつけることにならない。「そうかこの商品が2ドルで出来るんだったら我々のデザインと望む品質なら3ドルで出来るだろう」と更に価値をつけることを目指す。マグカップなどどこの家にも存在するものだ。それを買い替えて頂くには更なる価値が必要である。そしてそのマグで飲み物を飲む時、今までよりも豊かな時間や気持ちになれてこそが我々の使命である。なかなか日本はデフレ社会から脱却できないでいるが、供給側の問題である。お客様を大切にしてます風な文言で値引き社会に引きずり込み、人口は減っているのに価格勝負でのし上がった企業を放置しているからだ。もともと倹約を美徳とし、良いものを長く使う習慣のあった日本人の姿はもう見られない。安易な消費に浸ってしまった国民にデフレ脱却と言ってもピンと来ないのだ。安物は安い材料で作られているのは当たり前だ。日本で売られているソファの価格も3万円から500万円くらいまでの差がある。500万円は確かに高いかも知れないが、それでも20年使うなら1日1杯のスタバを我慢すれば買えるのである。1日に何時間か座るソファだ。コーヒーとの価値を比べてみれば私ならスタバを我慢するだろう。そして3万円の商品はそもそも20年は持たない。耐久年数もあるが、座り心地も生地の触り心地も雲泥の差があるものだ。家具について言えば、かつては3兆円の小売市場があったが、今や1兆円ちょっとにシュリンクしてしまった。もちろんライフスタイルの変化や人口減もあるが、良い商品が売れなくなっているし、良い家具屋さんも淘汰されてしまった。「これがいい」から「これでいい」という業界になってしまったのだろう。価格で勝負するのはある意味簡単だが、アップサイドに展開するには様々な努力がいる。良いものを作れば売れるというような時代ではない。商品価格以外にもブランドの信頼感や、デザイン性、品質の保証、販売拠点、スタッフ教育など様々な努力が要るものだ。しかし、これからの日本はそちらの方向に向かわざるを得ない。人口減に低価格が拍車をかければ日本のGDP世界順位はますます下がってしまう。ましてや1人当たりでは既に先進国中最下位レベルだ。アジアでも第4位。悲しいことだ。
・海外展開
Francfrancでは2003年に香港に進出し、海外進出を行なった。時にサーズという感染症が流行り、街には人がいない状況でのオープンだったが、なかなか苦労した。数店舗を出したが5年間ほどは赤字続きで、もうそろそろダメかなぁと思っていた時に急に売り上げが伸び出した。その後は毎年多大な利益を生み出し、コロナ前の2020年までは順調に店舗も増え孝行子会社だった。その後アジア展開を目論み、台湾、韓国、中国、シンガポールと展開を始めた。しかし、今から思うと無謀な展開だった。台湾、韓国はフランチャイズであったが、相手先企業との合意形成がうまく出来ていなかった。思うような店舗展開に至らずに結局はFC契約を解消し精算した。また中国は少し進出が早かったのだろう。なかなかブランド浸透がはかれなかったし、従業員教育などで苦労したが、出直しを決め撤退をした。シンガポールについては民度は高いのだが、インテリア市場は厳しかった。如何せん四季が無い国である。季節ごとのモチベーションを打ち出しにくい。アパレルも苦戦する国だが我々も一度も月の黒字を出さないまま終了してしまった。
香港については今でも継続しているがコロナ禍も厳しかったが、国家安全維持法が施行されてから富裕層の人達が香港を脱出し、香港らしさが変わってしまった。セントラルやコーズウェイベイなどの繁華街も人が減り、自由だった香港がより中国寄りになり、代わりに本土から人が押し寄せてきた。それまでFrancfrancを支えてくれていたお客様は裕福な主婦層であったが、一番香港から他の国へ移住した人達が多かった属性であった。このように日本と同じマーケットの国など一つもない。やはり一国一国、その国にあったやり方を行わないといけない。多額の損失を出した海外展開だったが、学んだことは大きい。そしてブランディングの観点からはどうせ進出するならアジアではなくヨーロッパから攻めるべきだったと今は思う。今ではそれほどでもないが、かつては東京より大阪、大阪より福岡の方がブランドのポテンシャルが高かった。それを紐解くと大阪では「東京から来たブランド」という見方をされるからだ。つまり地方に行けば行くほど憧れでみられることになる。という理屈で言うなら、東京の人が憧れる街はというとパリとNYしかないと思う。アジアは所詮アジアだ。パリであれば東京の人も「へぇ、Francfrancがパリに」と言う感じになる。またヨーロッパはインテリアへの造詣も深い。Francfrancという業態認知も抵抗なく受け入れられるだろう。香港はまだしも、今後海外進出する場合は是非パリでそのカワイイ華やかさをお披露目してほしいものだ。
コロナ危機
・感
2019年秋ごろ、何となく「そういえば最近銀行の人に会っていないなぁ」と思い、部長クラスの人にアポを取るよう指示していた。と、同時に「コロナという変な病気が流行り始めたなぁ」と気になり始めていた。実際に銀行の人と会うのは年明けぐらいになったが、もうその頃にはコロナの猛威の兆しが伝わってきていた。
当時借入金は約40億円くらいで、バランス上もそう大きな金額ではなかったし、財務は健全であったが、コロナの影響で店を閉鎖とかになったらどうなるのかという不安があったし、全く未知の脅威の前に頭の中には「生き抜く」ことしかなかった。どんなことになろうとも会社を守らなければならない。その思いしかなく、先手を打つしかないと思うようになった。そしてこうも思った。コロナは世の中を変えるかもしれない。そして、明けた頃には違う世界があるのではないだろうか。その違う世界でスタートダッシュをすれば、優位な位置に立てるかもしれない。つまり今まで野球をやっていたものが、新しくコロナが明けたらサッカーという種目に変わるような気がした。つまりそれはチャンスかも知れない。そんな気持ちでまずは会社が生き延びるだけの資金確保を行なった。
銀行には挨拶、世間話程度でと思っていたが、実際に会う頃には完全にコロナ対策用融資をお願いすることになった。最大の融資をかき集めるしかない。その話を2020年2月に行い、メイン行を中心に追加80億円の計120億円のシンジケートローンを組んでもらうことになった。80億円の追加があれば店舗閉鎖が例え1年続いたとしても何とか会社は持つだろう。そして4月には融資は実行された。
・生きる
120億円の確保はできたが、同時に返済計画を出さないといけない。それには年間10億円の返済だ。今まで通りの経営では到底返せる見込みはない。いろいろ検討したが「生きる」為には血を流すことも必要だと判断し大英断を行なった。①本社人員100人削減、②本社事務所半減、③役員賞与カット、④新規出店凍結、⑤一切の新規事業廃止が主な英断だ。細かい所では社長室も廃止し、秘書も置かなくなった。人を切るのは本当に苦労するが、配置転換含め幹部社員にも説明してまわった。しかし、それまで自分は本社人員が多過ぎだと感じていたのでこれは人員削減のいい機会だと思った。それによって社長室は無くし、自分はリュックを背負うようになった。リュックの中にはPC。リモートで仕事をするという初めての経験だが、逆にPCさえあればどこだってオフィスになる。個人的にシェアオフィスを借りたが、特に体裁を装う必要も感じていなかった。厳しいリストラだがこれはオーナー社長だから出来たことだと思う。新規事業や出店をやめるには一時的ではあれ特別損失が出る。当然決算数値は悪くなる。サラリーマン社長なら自分の代にはやりたくないものだ。しかし、今やらないといけない。廃止される事業の担当や、出店交渉をしてきたメンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし、今やらないとみんなが死ぬことになるかも知れない。コロナという目に見えない敵との戦いは一刻も余談を許さない状況のように思えた。正直、知り合いの社長連中や世の中の大半の企業はまだのんびりとしていたし、政府への陳情などをしていたが、そんなあてにならないことより自分がいかに生き延びて、ステージが変わった時にスタートダッシュできるかしか考えていなかった。コロナが目に見えない怪物のようにも思えたが、何か大きなチャンスが来るようにも思えていた。
そして4月、5月と全店閉鎖が決まった。ただその間じっとしているわけにもいかない。ECだけはやれる。店舗閉鎖が始める前にインスタのフォロワーを増やす施策を行なった。それまでは30万人だったが、店頭での販促を通じ80万人まで増やした。インスタでバンバン新しい情報をアップすればそのままECにお客様は来てくれると見込んだわけだが、これが功を奏した。店舗スタッフもすることがないので休んでもらう人もいたが、EC対応にもまわってもらった。実際に店舗が閉鎖されるとECにどっとお客様が来てくれた。コロナ禍での巣篭もり需要もあった。もちろん店舗の売上はないので4、5月は赤字になったが、6月になると店舗を開けることが出来たが、そこにも大勢のお客様が訪れた。しかもECの売上は落ちないまま。半年前には8月決算の数字は当然赤字覚悟でいたし、壊滅的になる不安も抱えていたのに、6〜8月で逆転ホームランだ。経費も相当削減したせいもあり、利益はグンと伸びたのだ。
・最高益
結局コロナという感染症はインテリア業界には神風となった。翌21年8月期には46億円という過去最高の営業利益になった。売上が増えた上に経費もとことん削り落としたからだ。そして新たに調達した80億円には一切手をつけないままだった。新しい事業にも夢はあった。すでに契約している新規店は違約金を払ってでも出店を取りやめた。一切妥協することはなかった。「生きてやる」という思いだけが自分を突き動かしていた。当時自分の頭の中にはWANIMAの「りんどう」という歌が流れていた。
「この想いと引き換えに
目の前の扉をくぐって
生きて、生きて、生き抜いてやれ
汚れたのはどっち?見上げた星空」
他社の動きを見ているとみんな遅い。20年後半になって慌てている企業がほとんどだった。大変だったがいち早く動けたのは19年秋の「銀行に会おう」という感だ。それ以降の英断はオーナー社長であるからこそ出来たことだ。また今から思うと何かに取り憑かれているような感覚だった。自分の経営者人生で最も殺気だって強かった自分がそこにいたように思う。
そして2021年8月期の決算が見えてきた頃、この調子なら再上場を狙えるのではないだろうかと思うようになった。事業はFrancfranc1本に絞った。無駄な経費も殆どない。収益性は10%以上ある。そう思い社長引退を考えるようになった。
引退
再上場
東証には同じ社長が同じ会社で再上場はできないというルールになっている。また同じオーナーでもダメだった。そこで証券会社に相談をし51%の株を持ってもらう為に投資ファンドを探すことにした。10社ほどのファンドの中から数社に絞り、提案を聞くことにした。再上場を狙うわけであるからただ金額が高いだけで決めてはいけないと思った。当然私は株を売るわけだから個人的には高い方がいいように思うかもしれないが、ファンドにそれなりの株を売り、その後数年後の上場時に9.9%のシェアを残し市場に売出すという2段構のプランであるからトータルで考えなければいけないし、税金のこともあった。いろいろ検討し、割と新興のファンドに決めることにした。そして2021年8月31日に自分は引退することとなったのである。会長にも相談役にも、もちろん顧問にもならずに会社を去ることにした。1992年にFrancfrancを創業して29年間。本社に出勤している社員も少なかったが全従業員向けにリモートで引退を伝えることにした。最後はオーナー社長にしかできないリストラを行なった。奇しくも辞めてもらった社員もいた。その人達への禊ぎの気持ちもあった。そしてもうこれからは新しい世代の人たちが新しいFrancfrancを作っていく時代だ。やるべきことはすべてやり切り、レールは敷いた気持ちでもあった。
また世の中のビジネスマンにはいろんなタイプの人がいるがゼロから新しく何かを生み出す0→1人間、そして今あるものをさらに成長させてゆく1→2人間。どちらかというと自分の場合は前者である。当時のFrancfrancにはとっくに後者の人間が相応しくなっていたように思う。小売というビジネスは大きくなってくるといろんな部署での緻密さが必要になってくる。全体にバランスよくその緻密さを積み上げることによって全体の効率性が上がってゆくものだ。その段階に来ていたFrancfrancでの仕事には正直自分なりにもつまらなさを感じてもいた。まだまだコロナ禍であった為、静かに社を去ることとなった。特に感慨深いものは不思議と感じなかった。「自分なりに精一杯やり尽くした、後は託した」という気持ちだけであった。
・旅
社を去ったのは親族であった実の弟や、娘婿も同じだった。3人が去り、資産管理会社の方を3人で運営しなくてはいけないので青山に小さなオフィスをつくった。が、自分はその後旅ばかりしていた。2021年12月マイアミ、LA、ホノルル(隔離付き)、2022年2月ハワイ(マウイ)、4月ハワイ、5月ハワイ、NY、6月ドイツ、ミラノ、ドバイ、7.8月イタリア、モナコ、フランス、スペイン、スイス(1500K車の旅)、10月ハワイ、12月マイアミ、NY、隔離は致し方なかったが、空港での面倒な対応も我慢出来たのは暇な時間があったからこそだと思う。何故か、日本人の中でいち早く世界に出なければという思いにも駆られていた。実際に行ってみるとコロナ騒動は日本だけだった。少なくとも行った国はマスクもしておらず、普通にみんな飲んでいたし、何で日本だけという拍子抜けしたのを覚えている。帰国の前に各国で陰性証明をもらわないと飛行機にも乗れなかったが、面倒なことをやっていたなぁと思う。しかし、今になってみれば航空券も安かったし、投資とかの環境も良かったように思う。これらの旅で感じたのは日本と他の国の差である。コロナ禍で日本は自粛自粛で止まっていたように思うが、世界はとっくに動き出し、日本は周回遅れになっているようであった。特にドバイやモナコで見た景色は日本ではなかなか表に出ない富裕層の動きであった。ドバイの不動産デベロッパーの話を聞く機会があったが、戦争が始まったロシアや国家安全法の施行された香港からの富裕層はいち早くドバイに移住し、不動産投資を行なっている。10年で人口が倍になったドバイへの投資は主にインド、ロシア、イギリス、香港あたりから来ている人達らしい。「日本からは?」と聞くと「ゼロ」という答えが返ってきた。まだ韓国人の方が少しあるらしい。また人口の90%が外国人というドバイではホテルのレストランではロシア人もウクライナ人もトルコ人も一緒に働いていた。ここではみんなアラブ首長国連邦の国民なのだ。またモナコでも華やかな街並みや人混み、派手な高級車が行き交い、コロナってとっくに終わってる?という感じであった。そう思うと日本の人々は大人しく国の言うことに従っているし、情報統制されている中とても海外へ旅に行くなどの行動は起こりにくいが、その間に世界から遅れていったのだ。
22年の車の旅は魅力的だった。イタリアのボローニャからスペインのバルセロナまで地中海の街を転々と訪れたが、車でしか行けない街に寄るのは楽しいものだ。印象的だったのイタリアのサンタマルゲリータと、南仏のエーグモルトだ。前者はポルトフィーノの隣町だがイタリアの庶民的な港町で何故か「あー、この街なら原付と小さなボートがあれば楽しく暮らせるなぁ」と思ったし、乗合の船で行く海水浴場は海を楽しむ大人達で賑わい1日中海に入ってはチェアで休むことを繰り返している。毎年のように夏は地中海に行くが、どこに行っても海水浴を楽しむ人達が多い。日本は海に囲まれた国なのに海に入る人は5%しかいないという。海水にはマイナスイオンやミネラルがたっぷりだ。日焼け止めをたっぷり塗っている日本人は何か自然ではない気がする。そして、エーグモルトは塩の産地だがここではアサリの美味しい料理を楽しんだ。もの凄く美味しかったので、日本に帰ってから何度かチャレンジし作れるようになった。旅に出て料理を学ぶとは思わなかったが、のんびりした中世の街にとても良い空気が流れていた。
また同じく22年に訪れたマウイでは地元のサーフガイドの人とサーフィンを楽しんだが、サーフィンしながらいろんな人を紹介してくれる「彼はNASAにいたが早期リタイアで今はマウイに」とか「彼はGoogleにいたけど辞めてマウイに来た」とか。全て40、50代の人達だ。定年過ぎてもあくせく働かなければ老後が暮らせない日本に比べてなんという余裕なんだろうと。しかも不動産ときたらマウイ、ハワイ島はオアフより高い。それだけメインランドの人に人気らしい。
・何かをやりたい
旅をしながらも何かをやろうかなと思うのは性分だと思う。常に何かアイデアが生まれてしまう。もちろんFrancfrancの社長の時のように毎日オフィスに行き、会議の連続などといったスタイルにはとても戻れないが、新しいブランドというのは常に頭の中にある。そして日本人が1番下手なラグジュアリーマーケットにしか興味はない。先ずはABODAというブランドをつくることにした。(welcome aboard)からの造語だ。ブランドといっても雑貨などの商品を売るような小売ではない。ある意味ライフスタイルブランドだから何屋でも構わないと思うが、先ず頭に描くのは空間だ。ホテルや住宅などわかりやすいスタイルイメージを表現したい。他にもウェルネス、アート、車など思い浮かぶものはたくさんある。そんなことをライフワークとしてコツコツやっていこうかなぁと思うようになった。しかし、現役の時のように目標や締め切りもつくらない。自分が気に入ったことが納得出来る形になることが最優先だ。昔から出張等も含め数多くのホテルに泊まってきたが、いつしかホテルは文化の集合体だと思うようになった。アメリカにあるような大手チェーンのホテルとかはあまり興味がないが、神が細部に宿っているようなホテルを見ると感激するものだ。特にインテリア業界が長かったせいもあるが、建物もさることながら居心地のいい、そして良いセンスのインテリアは感動の大部分を占めているように思う。インテリアといっても家具だけではない。デザイン、レイアウト、家具の配置、色彩、移動導線、水回りの使いやすさ、収納、窓からの景色、そして調度品やアートのセンスなど。今まで1点の不満もないというホテルには出会ったことがない。もちろん自分のセンスが万人ウケするとは限らないが、自分が細かいジャッジしながらコツコツとつくりたいものだ。ただホテルという事業をやったこともないし、ある種の経験という意味で2023年8月に千葉にBOTANICAL POOL CLUBというホテルをつくってみた。つくったと言っても投資家サイドにまわってつくった訳で、プロデュースや運営は近しい人達に任せた。何故かというと、そのホテルは自分のやりたい客層向けではないし、若い人達が設定するお客様像だからだ。ただホテル事業という意味では経験を積まなくてはと思い、投資をすることになった。また鎌倉やハワイにヴィラを設けたり、広尾にゲストサロンをつくったりしてイメージする空間づくりを少しずつ始め出した。こういう空間づくりは単に事業としては不動産事業になるわけだが、空間の付加価値がなかなか日本では不動産価格に反映しない状況だからこそ、その常識をブランドという付加価値で破りたいのである。余談だが、たまたま20年ほど前に建てた自宅は隈研吾さんに設計をお願いし、自分の建築に対する考えなども織り込んだ家だったが、単に不動産相場というのではなく、庭やインテリアも含め付加価値の高い物件として高く売却できたと思う。そのヒントはアメリカ、ペンシルベニア州にあるフランクロイドライトが設計した落水荘だ。年間12万人以上の人が訪れ、その保有者になりたいという人がたくさんウェイティングしている建築だ。つまり土地含めた建造物も付加価値をつけることが出来ると思っている。あくまでも街や自然という建築が置かれる背景も考慮しなければいけない。異質で歪な建築は逆に景色を汚してしまう。建築だけではなく内部の構造や調度品など全てに渡り拘ろうとすれば相当な見識を持たないと難しい。
車事業もやることにした。もちろんメーカーやディーラーがあるし、車の流通は今までの常識が蔓延っている。車を単なるハードとして捉えればそういうしがらみに巻き込まれるのであろうが、そんな気はサラサラない。車はあくまでスタイルだし、ライフスタイルの重要なモノだ。言葉でたとえるならフェラーリは「官能」だし、ポルシェは「思想」だと思う。だから熱狂的なファンがいる。車をあくまで乗り物、つまり移動のツールとして見れば何も面白くないし、運転の喜びだけでもつまらない。数年前にさかのぼるが興味本位で車のショーにでかけて古いベンツの280SLを見かけて購入した。その車が縁でネットで調べるうちに新車同然で古い車を組み上げているビルダーがいるではないか。様々なビルダーが世界にたくさんある。ポルシェ964型をベースに新車以上に組み上げるSinger社をはじめ、ベンツ、ジャガーなど往年のスタイルのまま新車同然のビルダーがあるのだ。日本にはそんな会社は全く無く、ヴィンテージカーに乗る人は故障と戦いながら継ぎ接ぎ状態で乗っているのである。自分もクラシックレンジで千葉まで行ったが、帰りはエンジンがかからずレッカーを呼び、電車で帰った経験がある。スタイルとしてのヴィンテージカーはかっこいいがそうしょっ中壊れていたのでは乗りにくい。そう思い、ドイツにある190SL、280SLを主に新車同然で作っているビルダーと交渉し、日本での販売権を得た。その車たるや往年の色気を醸し出したままの新車なのである。優雅に東京の街を走るにぴったりの車である。自分にとっての車、それはあくまでファッションだ。ファッションに内包する形でスペックがあるものだと思う。テスラを始めとしどんどんEV化もしている、またシェアカーなど移動の効率性を求めている動きもある。でも自分にとってはモーターではなくエンジンというモノづくりに色気を感じるし、車のある景色をどう素敵にするかが車としての大きな魅力だと思う。カジュアルに乗りたい車、スーツで乗りたい車、優雅に乗りたい車、ワインディングロードを攻めたい車など様々なシーンで素敵でありたいと思う。
事業売却
・3年
2021年に再上場を目指し、自分は社長の座を降り、ファンド主体の経営になったわけだが、まだ25%の株を有していた。数年後の再上場を目指す形で準備していたわけだが自分は報告こそ受けるが、日常の経営には一才携わることはなかった。それでも店があるのでたまに覗くことはあったが、現場を見れば、その経営実態は想像がつくものだ。ファンド主体になってクリエイティビティのスピードが遅くなっているなぁ、品揃えがつまらないなぁなど思うことは多々あったが、それも運命なのだろう。いずれはその運命さえ乗り越えていかなくてはならない。よくアート&サイエンスという言葉が使われるが、クリエイティブはロジックに負ける運命にある。ファンドにはアートの要素はない故にどうしても経営の効率性の方が優先するのは致し方ないことだろう。だがその影響はボディブローのように効いて来るはずだ。そう思いながらもあまりファンドが長く経営をリードしない方が良いなぁと思うようになっていた。ファンドは5年以内に再上場もしくは事業譲渡でエグジットする予定だったが、今から思うと最長3年が良いとこなのだろう。それ以上だと完全にアートの部分が消えてしまい、結果として企業の中長期の成長性が失われていく。ファンドが入り経営効率を高めることはできる、そして一時的に利益を高めることは出来るだろう。しかしそこまでだ、出店や品揃えの幅を増やすなど単純に掛け算で売り上げを増やすことは出来るかもしれないが、根幹であるブランディングをいうことが出来るファンドはほぼ無いと確信した。つまり彼らには暗黙知の部分を構築することはできないのである。ブランディングには裏付けとなるロジックが無いことが多い。例えばユニクロが「ライフウェア」と言っているが何故「ライフウェア」なのかは説明できても、そう掲げることによって売上はいくら上がるのか、利益はどうなるのかなどは誰も予測も説明もできない。しかし、そういう服のコンセプトはブランドの根幹をなすものであって、大切な言葉なのだ。それこそがアートであるがロジックがあるわけではない分、ロジカルな人達の要求に対し説明できない弱さを含んでいる。ブランディングにはやらなければいけないことより、やってはいけないことの方が多いと思う。目先の売上にとらわれ、やってはいけないことに踏み入り、少し売上が上がったことが正となり、中長期で売上が下がってしまうというのを嫌と言うほど見てきた。企業トップは目先の売り上げを正とせず、長期的な売上構築に勤しまなければいけない。そういう考えは残念ながらファンドは持ち合わせていない。5年という契約の中で、2年超過ぎた頃から早く離れたほうがいいのになぁと思うようになってきた。そんな中、以前からの知人ではあったO氏の企業がFrancfrancを欲しいという思いを聞き、ファンドに紹介した。あくまで再上場を狙うという話からは外れるが、事業会社の方がまだ理解をしてくれるだろう、またブランディングという意識は事業会社の方があるだろうという思いもあり、ファンドとO氏の交渉が始まった。約半年ほどの経緯を経て、Francfrancは再上場ではなくO氏の会社に売却されることになり、自分の分を含め100%の株式を2024年8月に売却となったのである。1990年に起業してから実に34年間、自分の生んだ会社から完全に離れた瞬間であった。2021年に社長を降りていたこともあり、特別何かのメッセージを発することはなかったが、人生を賭けた仕事が次に引き継がれ、自分のFrancfranc人生に幕が下ろされた瞬間であり、感慨深いピリオドであった。
・嫁がせる
企業を産んで、育てて、そしてどうするか?おそらく自分に男の子供がいたら会社を継がせようとしたであろう。しかし娘二人だった。二人とも一時は会社に在籍したこともあるが、家庭では全く仕事の話をせずにいたし、娘達も1従業員として勤めたことはあるが、経営マインドを教え込み将来をというほどには至らなかったし、そもそも同族経営を嫌っていたので例え息子がいたとしても実力で這い上がってこなければ株は継がせても経営を継がせたかはわからない。会社もそこそこの規模になっていたし、逆にどうしても社長の娘というレッテルがあるだけに娘達も働きにくかったろうなと今になって思う。
そういう事もあり、いつかは会社を手放す時が来るのは自分でも予測していた。自分も死ぬ。そして古びた頭になる前に何とかいい嫁ぎ先を探さなくてはいけないと思っていた。企業内起業としてスタートしたせいもあるが、当初から会社は社会の公器だと思ってきた。そしてブランドという価値を見出すようになってからは100年、200年と続くブランドにしたいと思ってきた。当然自分の寿命より長いわけだからいずれ誰かに繋いでいかなければいけない運命だともわかっていた。資本と経営は別物であるが、自分が創業者であり、資本家である以上経営者としての立場が終わっても、資本家として残れば当然株主としての権限もあるし、また経営者も資本家の方を多少なりとも意識して経営をしなければいけないだろう。そう思うと自分が経営者を降りる時は資本家からも降りるべきではないかと感じていた。自分は無くてもブランドは生き続けてほしい。ある人からすればせっかく作った会社を手放すのは惜しいという人もいるだろう。または、資本含め創業者が手放すのは従業員からしても寂しいことではないかと思う人もいるだろう。しかし、自分が起業しここまで来れたのは社会からたくさんの授かり物をして、広い意味でそのマネージをしたまでだ。いずれは社会にお返しをしなければならない。創業者という、ある意味企業をどうにでもできる立場ではあったが、サラリーマン時代の教訓からか鬼軍曹のように会社を引っ張ってきたわけでもない。いわゆる俗にいうカリスマ経営者然としてきたわけでもない。幹部社員を育て、どちらかというと彼らの自主性を見ながら傍から意見を述べるような経営をしてきた。何故なら若い時のエネルギーや一過性の熱量で経営するのは長続きしないと思っていたからだ。例えば30代の若い経営者が勢いと熱量で頑張っても所詮10年、15年と経てば経営者も従業員も歳をとる、その時にスタート時と同じような熱量は担保されない。むしろカラ元気のような体育会系の雄叫びを上げるより、仕組みで経営するやり方を構築しなければいけない。そうでなければ企業が長続きしないのだ。近頃のSNSで会社の目標がどうだとか従業員集会など熱量の高さを表現するような企業社長の投稿を見るにつけそう思う。何十年も火山の如く炎をあげ続けることはできない。むしろ静寂に淡々と成長を続けられる精緻な仕組みをつくりあげる企業こそ強いのだと思う。そういう意味でFrancfrancはカワイイというARTの部分と精緻なるSCMというサイエンスで構築されている。そしてその基礎を成す人事教育システムや店舗政策などがある。その構築物の精度を少しずつ少しずつ上げてゆけばこれからもガタつくことはないだろう。長年の苦労の末に掴んだ独自の仕組みだ。そんな経緯もあり、少し寂しいが自分の手からFrancfrancが離れてゆくことに不安はなかった。ある意味別れは突然に訪れるものだ。再上場や事業譲渡など先の先ぐらいに思っていたが、コロナが全てを変えた。本当に人生はわからない。座右の銘「人間万事塞翁が馬」だ。19年末のコロナで売上が大変になる、資金の準備をしなきゃ、20年に入りシンジケートローン120億借りた、しかし120億返さなきゃ、従って最大のリストラ作戦、そして訪れた巣篭もり需要で売上爆発、最高益。再上場を決める、そして21年夏引退。凄まじい1年半だった。自分でもこんなスピード展開は初めてだ。その1年半の中で自分のあみだくじは全て正しい判断をしてきたのだと思う。そんな1年半が自分の人生に訪れたことは奇跡であり、まさにコロナというピンチは勝機になったのである。また改めて経営というもののダイナミズムを味わせてくれた。
そして企業を産み、育て、繋いでいく、おまけに上場、非上場化、海外展開という体験、いろんな意味で企業の起承転結を経験出来たことは人生の大きな財産であろう。世の中にはもっと大きな企業もあるし、しっかりした企業はたくさんある。しかし、ブランド事業という曖昧模糊とした概念をキッチリ事業構築できたことは規模の大小云々より自分自身納得いく経営者人生であったと思う。それもこれも産んでくれた両親と家族、社会人として、また独立するきっかけになった親会社であった家具の会社、多くの先輩、友人、金融機関を始めとする取引先。そして一緒に働いてくれた創業からの全ての社員、アルバイトの皆さんのおかげである。こんな楽しい人生を歩ませてくれたことに対する感謝は計り知れない。
こうやって大きな一つの山から降りた自分だったが、少しの時間を経てまた登りたくなっている自分がいる。決して険しい山ではなくていい、丘ぐらいを登りたいという気持ちがじんわりと湧いてきた。イギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉「何故山に登るのか、そこに山があるからだ」と同じだ。きっと自分にとっての生きている証とはビジネスという山に登ることなのだろう。
Francfrancという存在
・世界で唯一無二
もう少しFrancfrancについて書いてみよう。
今から40年ほど前にとある人の講演で「これからは日本にもホームファッションの時代が来る」ということを聞いた。住関連はそれまで家具屋、電気屋、照明屋など縦割りの業界で成り立っていたが、横軸で特定のスタイルや客層などを捉えた業態が生まれるという話だった。もちろんアメリカやヨーロッパではそういう業態が既にあったが、日本では皆無であった。その講演のことがずっと頭にあったせいか、1号店のFrancfrancは65坪という狭い空間で「25歳の都会に一人暮らしをする女性」とはっきりとお客様の属性を定めたことが正解だったと思っている。それまでもヨーロッパではHabitat、アメリカではCrate & Barrelが成功を収めていたし、日本でも無印良品やアフタヌーンティー、私の部屋などが先駆者としてビジネスを展開し始めていた。家庭のインテリアの購買決定者はほとんどが女性だ。従って女性をターゲットとして意識することは多くの企業が行なっていた。食器やファブリックのデザインなど女性の気にするアイテムほど売り場を華やかにするものはない。従来の家具屋という業態には無かったイメージが世の中に広まっていった。FrancfrancもHabitatやCrate & Barrelをとにかく定点観測した。年に数度それらに店に行き勉強を重ねたものだ。そしていつも見る都度に進化してゆく彼らにいつか追い越したいという強い思いを描いていた。しかし、何と言っても西洋スタイルのインテリアはヨーロッパから発信される。真似はできてもなかなかオリジナリティを出すのは難しいことだった。が、しかし「カワイイ」という言葉が独自性を持たせてくれた。そして、その「カワイイ」は売り場の中でお客様が発する一番多い言葉だったのだ。それで「カワイイ」という言葉を四方八方から研究してみた。お客様の発する「カワイイ」にはいろんな意味がある。単に商品がカワイイと思い発することが一番多いかもしれないが、実はその裏にそういう商品をカワイイと思える自分をカワイイと言っているのだ。それはきっと商品を家に置いたときに、彼が言ってくれる言葉なのだ。そしてこういうこともわかった。女性は幾つになっても「カワイイ」という乙女心を持っている。決して20代だけの専売特許ではないのだ。もちろん10代の女性にもある。しかし50代にも、60代にも「カワイイ」という乙女心があるのだ。そうして一見単純な表現かもしれない「カワイイ」の深さを探るにつけ、これをFrancfrancの柱となるよう構築していった。それから30余年が過ぎた今、「カワイイ」を軸にしているインテリアショップは世界にFrancfrancしか存在しない。Habitatが風前の灯になってしまった今、まだアジアでしか展開していないが世界で唯一無二の存在になったのだ。実際に購入しているお客様の中心は30代だ、そして20代、40代と続く。
・出店について
中堅小売業として150店舗は決して少ない方ではないが、無印良品やニトリなどの大手企業に比べればさほど多くはない。そして、そのくらいの店舗数で良いのではと思っている。数量的に測ったわけではないが、国内売上500億円程度で営業利益10%が程よいサイズなのではないだろうか。そのぐらいがちょうどお客様が飽きない程度になるのである。例えば全国に1000店舗もあれば、どこに行ってもあるという状態だが、それではお客様に「わざわざ感」はなくなり、普通の店になってしまう。Francfranc は非日常の店だ。生活に非日常の要素を取り入れるから楽しいのである。実用になっては面白くも何ともない。食事を食べるのと食料を食べるのが違うのと同じだ。ブランドは長く続けたい。成長はしなければいけないが年間売上×年数の大きさが問題だ。10億円の売上でも100年続けば1000億だ。お客様は誰も企業の成長を願ってなんかいない。良い商品が良い環境で売られ、自分が間違った購買行動をしていないと安心したいのだ。そういうブランディングを心掛ける企業こそが本当にお客様の信頼を得るのではないだろうか?安さを武器に安さこそがお客様の味方と唱える企業が多い中で、Francfrancは完全に一線を画してきた。もちろん高いという人もいるのは確かだ。しかし、安物を売っているつもりはない。品質やデザイン含め、それなりの商品をそこそこの価格で売っているつもりだ。安くしようと思えばいくらでも出来る。しかし、そうしては日本の暮らしは豊かにならない。日本がいくら経ってもデフレから抜け出せないのは多くの安売りの店舗が増えてしまったからだ。国全体でタコが自分の足を食べているのと同じ現象だからデフレから抜け出せないのである。
・戦うな
とかく経営用語には戦いを用いることが多い。戦略、戦術、競争、競合、ターゲットなどなど。しかし、お客様と言いながらターゲットとはどういう意味なのだろう。なぜ狙うのか?お客様は敵ではない。FrancfrancではCustomer is dear friendと掲げている。敵ではないが神様でもないのだ。もしお客様が神様と言うなら、神様から利益など取れないではないか。真の友人のように付き合えばいい。もちろん親友であるから騙しもしないし、裏切ってもいけない。しかし全てを信頼して話せば良い。価格の妥当性も、Francfrancが理想とする接客もだ。未来の計画はお客様の満足を高めるための計画だ。そこに戦いの文字は必要ない。同業者も同じだ。自分たちは自分たちの友人であるお客様を見て考えている。どこそこの同業者がこんなことをやっているに興味はない。自分たちのやり方で友人と接すれば良いのだ。同業者にはたくさんの真似をされるし、コピー商品のようなものも売られる。それでも知らん顔だ。例えばすっかり定着した夏のハンディファンと言う携帯扇風機。我々は品質には充分気を配り、風力や静けさ、そして安全性など様々な基準を毎年上げてきた。つまり品質を良くして価格は維持してきたつもりだ。しかしあっという間に廉価版の商品が出回り、百円ショップやスーパーなどでも売られるようになったが、5年近く経った今世の中に残っている、つまり信頼を得て年間140万台以上販売しているのはFrancfrancだけだ。決して安くはないかもしれない。しかし価格をデザイン、品質そして信頼という価値で割れば割安だと思う。それほど真剣に開発をしてきたし、単に中国製を輸入しているのとは訳がちがう。それをお客様が理解していらっしゃるのだと思う。お客様は自分をわかっているのだ。エルメスの直営店で買ったバッグと、中古専門店で買ったバッグでは持つ時の気持ちが違うことを。お客様に寄り添うことは大事だ、しかし迎合することではない。お客様の時間や空間が豊かになることを真剣に考えることこそが友人としての責務であると考えている。
・AtoZ
Francfrancは「カワイイ」をコンセプトにしている。よく取材等で「社長の家はFrancfrancの商品で溢れているのですか?」と聞かれることがあったが、それは愚問というものだ。全くない訳ではないが、少なくとも家具はそれなりの高級品と言われる家具を使っているし、こう言っては何だが家の中にあるものはだいたい世界の一流品を使っている。あくまでFrancfrancや「カワイイ」はブランドの話だ。自分の生活はその枠にはハマらないし、逆に百円ショップの便利グッズも多少はある。しかし、それでいいと思う。つまり業界のAtoZを知っているからFrancfrancのポジションを明確に出来るし、そのアウトプットが出来るのだ。だいぶ前に六本木ヒルズで高級業態も営んでいたが、それもAtoZの中からある種切り取った業態だった。
世の中には3万円のソファもあれば600万円のソファもある。両者とも座ってくつろぐことはできるが、そのモノが醸し出す空間の魅力や座った感触など、歴然とした差があるのは一目瞭然だ。
例えばトヨタの役員がトヨタ車しか乗らなかったらダメだと思う。テスラもポルシェもフェラーリも乗って初めてトヨタ車の優位性を高められると思う。ユニクロの柳井さんもスーツを着ることが多いだろうが、イギリスのサビルローかナポリあたりで仕立てたスーツを着ていて欲しい。セブンイレブンの社長は人一倍グルメであって欲しいし、JALの社長は他の航空会社やPJにも乗って欲しい。全てを知った上でものごとを判断すべきだといつも思う。その点、自分は業務上海外には月一くらいの頻度で行っていたし、趣味としてのアートも随分見てきたし、コレクションもしている。また料理も作るし、クルマも好きだ。つまりライフスタイル全般の知識や経験が大事だと思っている。その上でFrancfrancなのだ。家具は座る、収納するもの、車は移動するもの、料理は栄養を取るためのものではない。自分にとっては全てがライフスタイルでありQuality of life の必要な要素なのだ。実は過去にブランドだけで10以上は作ってきた。コロナでFrancfranc以外のブランドは止める決断をしたが、自分の中ではブランドなんかいくらでも作れると思っている。どうお客様の属性を設定するかと、AtoZの世の中にあるモノをどうセレクトするかだけだ。それである種のスタイルを表現できればブランドになる。あとはネーミングや店舗イメージなどだし、裏側の商流の仕組みを整えればいい。そこに必要なのはそのセンスだ。そのセンスを磨くために日々の暮らしがあるのだと思う。料理にもA級グルメからC級まである。洋服も、車もたくさんの種類がある。決してA級だけを知っている人がラグジュアリーを作れるのではない。Aの良さも知っているがCの良さも知っている人がラグジュアリーであれ、スタンダードであれ、いろんなアウトプットができるのだと思う。
スポーツとの関わり
・トラアスロン
自分は年齢の割に若いと言われる。ありがたいことだが、正直なところ自分でも不思議なのである。代謝はいいと思うが、何か秘訣と言うべきものは無いが、唯一あるとすればずっと運動をしていることだろう。しかし、何かに長けているとかはなく、中学時代の卓球、高校時代の陸上程度だった。ただ何につけ体を動かすのは好きだし、何のスポーツにしてもそこそこのリテラシーはあったように思う。やはり運動のきっかけは走ることかもしれない。30代になり、少し太り出した頃に近所を走り始めた。走ることにそれほど時間をかけたこともないから、2K程度。そして5K程度まで伸ばしたくらいだった。たまたま田舎の友人が鉄人レース(今でいうトライアスロンだが当時はそういう呼び方をしていた)をやっているというので聞いてみると泳ぐ、自転車を漕ぐ、走るだ。まぁ何となく泳ぐ自信はあったので自転車さえあればトライアスロンができるんじゃないかと思い、買ってみた。そして34歳の時に初めて小さなレースに出てみた。最後のランで足が攣りまくり散々な結果だったが、何とかゴールできた。しかし、一人でただ黙々と練習する日々だったのでモチベーションもそう上がらないまま数年を過ごしたが、いつの間にか仕事も忙しく(起業したので)なり、遠ざかってしまった。しかし、47歳の時に、もともとやっていた頃のトライアスロン界のスーパースターだった白戸太郎に出会い、それがきっかけで再び友人達とチームを作りトライアスロンにのめり込むこととなった。最初の頃と違い、自転車の性能は向上し、スタイルもだいぶカッコいいものに変わっていた。
そこで練習を積み、10数年ぶりにロンドントライアスロンに出場したのが48歳だったろうか。それからはチームメンバーも増え、年に何レースか出るようになり、生活の中心はトライアスロンになり、週末は練習に打ち込み、65歳まで多い年は年間8レースほど出ていた。途中、心臓系の治療をしたりで休んだこともあったが、57歳の時にアイアンマンにもなり、自分の身体がその20年弱で頑丈なものになっていった気がする。65歳で一旦引退をし、競技というよりは楽しむことを主にしようと考え方を変え、今はのんびり楽しむようになった。
おそらくその20年弱の時間が無かったら、今頃は何かの生活習慣病にかかり、ヨボヨボ爺さんになっていたのではないかと思う。正味50代の頑張りが今を支えてくれているのである。またその頃からの習慣で、暇があれば身体を動かすようにしているし、年に何回かトライアスロンや近郊のミニランニング大会に出たりしている。頑張りすぎない程度にやっているのが良いんじゃないかと思っている。ただし、毎朝体重を測ることや月一くらいで血液検査を行なって身体の健康具合をチェックしている。冠状動脈にステント入れたり、アブレーションで不正脈治療などをしたが、先生からもステントを入れてトライアスロンやってる人は知りませんくらいに言われているが、ま、適度な運動は今の自分を支えている大事なことである。いつまでトライアスロンをやるかわからないが、出来るうちまではと思っている。特にチームの仲間とレース旅行に行くのはとても楽しい。もちろんみんなに迷惑をかけないことを心がけながらではあるが…。
・サーフィン
サーフィンは若い間はとんと縁がなかったが、50歳でヒョンなきっかけから始めることになった。最初はロングからだったが、上手く乗れるようになるまでは2年ほどかかったような気がする。それから千葉、湘南、ハワイ、バリなどに行くようになり、トライアスロンと並行して親しんでいった。サーフィンはトライアスロンと非常に相性がいいと思っている。レース後海に入ると水圧が心地よく下半身の筋肉をマッサージをしてくれるし、レースの疲れが残らないからだ。しかしロングボードというのは乗りやすいが、扱うのに厄介で長さが3m近くあるし、重いので持ち運びがしにくい。特に最近は車の制限もあるし、海外に持って行くのも大変だしで短めの板に変えつつある。短い板にするとテイクオフしにくいのは確かだ。うねりから乗れるロングと違って、乗るタイミングが極めて短い。パパッとテイクオフしないとうまく乗ることができない。今は2mほどの長さのボードに乗っているが、取り扱いもしやすいし、横にもすぐ行けるので楽チンだ。
サーフィンというのは、トライアスロンなどと違って何かを競うスポーツではない。実はそのことがすごく大きい意味があると思っている。正直いうと、人生で一番時間をかけたのはトライアスロンだが、人生に影響を与えてくれたのはサーフィンだ。それは自然と対峙するスポーツであり、同じ波は2度とないということや、サーファー同士の自然のルールを守ることなど様々な学びが必要なことかもしれない。そして最終的に自然を前にした時に人間の弱さを認め、それでも自然の一部を利用し楽しませてもらうスポーツだからだ。つまり自分の弱さを知り、人間力を試されるスポーツであり、そう易々と入れるスポーツではないような気がする。上手い人がリスペクトされるし、そこには社会的地位、年齢、財力など全く関係ない世界がある。従って謙虚でない人はいつまで経っても純粋にサーフィンを楽しむことはできない。例えお金を積んでガイドを雇っても、ガイドに気に入ってもらえなければ適当に扱われるだけだと思う。しかし、そういうスポーツだからこそ、スポーツの中で唯一カルチャー、つまり音楽やファッション、ライフスタイルなどを生み出していった。今でこそ一人でぶらっと行くことも少なくなったが、以前は一人で千葉に出かけたりしていたが、若い人たちにも挨拶し、あまり最初から良い場所に近づかず、そこにいる人達の状況を把握してから楽しむようにしていた。要はローカルの人達から見て鬱陶しい奴にならないようにするのだ。「何だこいつズケズケと来やがって」では下手をすれば「ここから出ていけ」となってしまう。「ま、ヨソ者だけどわきまえているからいいか」と思われればOKだ。下手に普段から偉そうな経営者である人ほどサーフィンは難しいと思う。どんなに偉くても謙虚になれるかどうかが分かれ目だ。そういう意味でとても勉強になったし、学びの多いスポーツだと思う。
・他
その他、スポーツはダイビングやゴルフ、野球、スキーなどいろいろ多趣味でやっていた。ダイビングはライセンスを取りスピアフィッシングという水中銃を使った魚獲りをやっていたが、危険も伴うのである時先輩が「もう止めようか」というのでやめてしまったが、ダイビングそのものは今でもサッと出来る状態ではある。ゴルフは20代の頃から始め、50代手前までやっていたし、会員権も3つほど持っていたが多趣味で忙しいのと、相対的に見てゴルフが一番下手だなと思い、スパッとやめてしまった。60歳くらいになったらまた始めるかなぁと思ったが、一向にその気にならず、最近ようやくハワイなら良いかなぁと思うようになってきた。野球は社内の野球チームに入っていたことがあるが、これはそう大したレベルでは無い。スキーも誰に教わったわけではないが、雪国育ちだったこともあり自然に滑れるようになっていて苦労はしなかったが、大人になってスキーチームに所属してからキチンとカービングスキーを教わり毎年数回雪山に出かけている。トライアスロンはなかなか歳とともに難しくなってくるが、スキーやサーフィンは出来るだけ長く親しんでいたいスポーツだ。無茶をせず生涯スポーツとして楽しみたい。
なんだかんだ週に2、3回はジムに行き専属のトレーナーに体幹を中心に鍛えてもらったり、週末は駒沢公園などでランニングをしている。やはりたまに心拍を上げないとだんだん呼吸が浅くなってくるし、また心肺も硬くなってくるらしい。そのように自分にとってスポーツは切っても切れない事項だ。歳とともについ億劫になってしまいがちな身体だけど、例えば歩くことからでもいい、少し身体を動かせばスイッチが入り走りたくもなる。また走り出せばスピードも追いたくなるものだ。少し早く走れば心拍は150くらいまでは上がってくれる。もっと早く走れば170だ。68歳で170の心拍を打てることが大事なのだ。そうやって身体の隅々の筋肉、神経を動かしてゆくとアスリート気分になれるものだ。
密かな目標もある。マスターズの70歳走り高跳びだ。日本記録は1m 46cm。超えられる自信はある。今はアキレス腱を痛めているのが、もう少しで治る予定だ。昨年試しに高跳びのコーチを雇い50年ぶりのジャンプをしたが5歩助走で1m40cmは飛べていたと思う。もう少し体重を落とし、17歩助走で跳べば記録更新は狙えるような気がする。跳べたとしても、だからなんていう訳でもないが、日本一になれたらそれはそれでとても嬉しいことだ。家の近くに何があったら良いかなとよく考えるが、一番欲しいのは体育館とトラックフィールドかもしれない。体育館の床をキュッと鳴かせるシューズの音や、アンツーカーをスパイクで走る音が好きだ。この歳でそんなことを思う人はなかなかいないかもしれないが、心の中にはいつも中高時代の体育施設の響きがこだましているのである。
中高年の人たちへ
・歳をとるということ
いつ頃からだろうか、肩や首が痛い。もちろんマッサージや鍼、整体、ブロック注射など様々な処置をしても治らない。根本的には肩甲骨の動きが悪いところから来ているらしく、毎日肩甲骨のストレッチをしているがなかなか完治することはない。
また今年の6月ごろからアキレス腱炎になり、走ることができなくなってしまった。結局PRP治療をし徐々に良くなりつつあるが、まだ完治せずで少しずつ走り出している程度である。これは土踏まずのアーチが弱くなっているのが原因らしいのでアーチを強化する地味なリハビリをやっている。他にも40肩、50肩などもあった。そんな風に自分の中では歳をとるということは痛みを伴うことだと理解している。また使わないところはどんどん退化してゆくものだと思う。それなりに自分は運動しているが、何もしていない人が急に走れば肉離れやアキレス腱断裂を起こすだろうし、長距離なら心肺がついていかない。それだけ筋肉も退化し、心肺も硬くなっている。自分が走る時は特にスピードを気にするというよりは心拍を気にしている。やはり走りはじめはどうしても苦しいから若い人達が最初から跳ばしても、自分はゆっくり走り出し、体が十分に温まり、心拍も130前後で安定してきたらスピードを上げるようにしている。最初から跳ばすと一気に170近くまで上がってしまうが、それを防ぐために最初はスロースタートにしている。そうやって自分の身体と向き合いながら最適化を求めている。
また血液検査は身体の通信簿だと思っている。項目にもよるが、肝機能、腎機能、循環器、癌など大体のバロメータが現れている。飲み過ぎればγGTPが上がるし、腎臓はクレアチニンや尿素、循環器は中性脂肪とコレステロール、癌はPSAや腫瘍マーカーを見ればいい。今の所ほぼコントロールしているので特に大きな問題はないが、やはり運動や体重コントロールは生活習慣病には大事なことだと思う。60歳前後で循環器の処置をしたのがきっかけだが、それからは医者好きのように何かあれば病院に行くようにしている。特に問題はないが経過観察的に循環器内科、消化器内科、脳神経内科などは年に何回かは訪れるようにしている。中高年になるとドック含めこまめに医者に行く人と、定年後全く医者に行かない人に分かれるが、例え健康でも若い時の健康とは違う。何かのきっかけが大ごとにならないとも限らない。つまり老体は順調に走ってはいてもいつ故障するかわからないヴィンテージカーのようなものだ。故障してからでは遅い、故障を予想するくらい自分を知っておくことが大事だ。
もちろん、実際の年齢もさることながら、意識の問題も大きいと思う。特に大企業を定年退職した人達は要注意だ。それまで数十年働いてきた会社の価値観で世の中は通らない。全く独りになった時に社会との乖離や焦燥感に焦ることになる。そして人生の山場をすぎ、下り坂の老後を迎えるものだと考えだすと一気に老けてしまう。しかし、60代ではまだまだ体力もあるし、余生も20〜30年ほどあるわけだ。何かの張り合いを見つけておかないと毎日がつまらない日々になってしまう。これは自分の場合もそうだが、65歳でFrancfrancを退職し、ぶらぶらしていたが、つい何かをしなきゃという気持ちが生じてしまう。もちろん後述する新たな仕事もやってはいるが、時間があるからやっているだけで焦ってやっているわけではない。そんな時に、いつもお世話になっている心理カウンセラーの人から「高島さんは常に何かを追い求めそれをクリアすることで幸せを感じていたかもしれないけど、これからは求めるんじゃなくて身近な幸せに気付くことよ」と言われた。確かにそうだったように思う。何気ない足元のことを見ずにいたのかもしれない。そして「常に忙しくなるように予定を埋めがちかもしれないけど、ヒマは暇なりにヒマを楽しんで」とも言われた。どうもヒマを楽しむことができない性格なので何か予定を入れない方がストレスが溜まっていたが、今はできるだけヒマでいいと思うようにしている。
・心臓
60歳前の人間ドックで血管の石灰化を指摘された。ドックの先生は「まぁ、老化ですねぇ」で済まそうとしていたが、その頃ランニング中に何故か酸素が入ってこない気がしていたので(後にそれは別な理由だと分かったが)「いや治してください」と進言し、精密検査を行なった。
結果は冠状動脈の狭窄が3箇所。75%、50%、25%が見つかった。狭窄している箇所の血流を調べるためにカテーテル検査なども行い、まず75%狭窄の場所にステントを入れ拡げる事にした。カテーテルは手術とは言わず単に治療という言葉を使うが、手首の動脈からワイヤーを入れ狭窄している場所にわずか数センチのバネのようなものを入れ、血管を拡げるのである。狭窄していると血流が悪くなるだけでなく、その箇所で血栓が生じる場合がある。血栓が頭に行けば脳梗塞、心臓にいけば心筋梗塞になる可能性がある。ひとまず50%狭窄の場所は様子見ましょうとなった。治療はわずか45分。手術室のようでもなくDIY屋さんの脇に治療台がある感じだ。スタッフがDIY屋のようなところからカゴにいくつもの治療に使うワイヤーやパーツみたいなものを入れている。治療台に乗ってモニターが何台もある中で進められるが、この治療は起きていなければいけない。手首の部分麻酔だけで始まるのだが血管の中をカテーテルがモゾモゾと通っていくのは決して気持ちいいものではないが血管に痛みはなく、その後も少し脈が乱れるくらいで、無事ステントの設置が終わり、手首をキツく閉められる程度で車椅子に乗り病室に戻る。3泊4日の入院だが極めてシンプルな治療だった。こんなのだったら早くやっとけばよかったと思ったくらいだ。もともと母親の家系が心臓病系なので覚悟はしていたが、早め早めに治療さえすれば、心臓はシンプルな仕組みだけに大事に至らない。
その治療が終わって、2年くらい経ったろうか。元々期外収縮というたまに脈が飛ぶことがあったが、それ自体はそう大きな問題ではないので気にしなかったが、今度は脈が速くなる心房細動という不整脈が出てきた。これはあまり良くない不整脈だ。要は心臓がカラ打ちすることで血液が心臓内をカラ回るのである。その事で血栓が生じるのだ。不整脈の信号というのは通常の鼓動とは違い、心臓から肺につながる血管の口から出るらしい。元々母親の体内にいるときはその信号で心臓が動いている。それが大人になってからも何かの拍子にイタズラに信号を出してしまうのである。その治療としては不正な信号を出す箇所を焼いて信号が出ないようにする治療を行う。以前はレーザーでカテーテルを使い点で焼いていたらしく、1回では治らず数回やって完治させていたらしいが、最近はその血管の口に小さな風船を膨らませ、そこに液体窒素を流し込み、面で焼き切るアブレーションという治療が主になってきている。とにかく心房細動の不整脈は気持ちが悪いし、いつ血栓ができるかの心配があるので治療を行ってもらった。これは脚の付け根の動脈からカテーテルを入れるのでステントの時よりは大掛かりだ。治療は麻酔で寝ている間に終わるので約3時間ほど寝ている間に終わった。脚の付け根の動脈は塞がるまで時間がかかるので確か8時間ほどは動けなかった。しかし、これも入院は3泊4日で済む。そして治療後、不思議なくらい全く不整脈は出ないのだ。恐るべし最新治療だった。その後今でも不整脈は出ていないが、50%狭窄の場所は2本目のステントを入れ拡げた。そういう治療を受けたので、今でも3ヶ月に一度経過観察的な診察に通っているが特に問題もなく過ごしているし、昨年身体を絞るために5キロほど体重を落としたが、そのせいか中性脂肪、コレステロールも更に落ち、とてもいい状態であると同時に「ステント入れてトライアスロンやっている人は知らない」と先生に言われるが、やって問題があるわけではないが、ステントを入れた人はおそらく激しい運動が怖いのであろう。いや自分はむしろ完治したのだからむしろガンガンスポーツしていいんじゃないかと思っているが。
ちなみに後にわかった事だが、酸素が入りづらいと思っていたのはアレルギー性の喘息だったのである。実は愛犬を飼って10年ほどしてから犬アレルギーになったのだが、そのせいで喘息になっていたのだった。しかし、その勘違いもあり心臓の治療ができたのは結果良かったと思っている。こうやって淡々と書いているが、実際に自分が治療してきて大した事ではなかった。世の中の3大疾病のうち脳も心臓も血管が絡んでいる。どうか何となく兆しを感じている人がいるなら積極的に病院に行ってほしい。ED気味の人も血管の狭窄の可能性が高い。検査などで時間はかかるが、やってみれば簡単な治療ですむので是非。
・若く過ごす
ありがたい事に「高島さんは若い」とよく言われる。スポーツのことは先述したが、精神的にも自分が老人という意識はないかもしれない。もちろん映画はシニアで観るし、優先席も躊躇せず座るが、髪は金髪だし、ファッションも世の中の老人とは違うと思う。いわゆる老人は茶系の服が多く、ポロシャツにジャケット、スラックスみたいな格好の人が多いが、そういうのは皆無だ。普段はパーカーにデニムやカーゴパンツだし、靴はスニーカーかブーツ、夏はビーサンだ。おそらく80過ぎてもそういうスタイルだと思う。そして車はスポーツカーしか乗らないし、基本自分が運転する。
例えば、自分が嫌いなものがある。例えばクラシカルな猫足のインテリアは大嫌いだ。ヨーロッパならまだしも、日本でそういうインテリアの家やホテルやマンションロビーはチンケに見えて嫌だ。それから「熟年夫婦」「熟年旅行」という言葉も嫌いだ。いかにも「良い歳を重ねて成熟した大人夫婦です」っぽいのが苦手だ。「秋の熟年夫婦京都旅行」的なポスターなどを見ると胸クソ悪くなる。もっとアクティブなイメージでいたいし、良い意味で不良老人でいたいのだ。もちろん身体にガタは来ているが、まだまだ夜遊びもするし、どこかに少年の心を留めておきたい。銀座でシャンパンも開けるが、焼きトンや、深夜のラーメンも食う。A級からC級までグルメなんでも食らう。時間があればジムに行くし、駒沢や代々木公園で走る。サウナの水風呂にも飛び込む。スキーも100キロ近くで飛ばすし、サーフィンも積極的に波を追う。そういうライフスタイルだからか、気持ちは老けない。トライアスロンでも70代、80代で頑張っている人も多いが、若い風貌かというとそうでもない人が多い。なのでスポーツだけではなく、そういう普段の気持ちからの影響が一番大きいのではないかと思っている。
あと、見た目は大事で多少の衰えはプチ整形すれば良いと思う。目周りに老けは現れる。自分は眉下切開で目の上の弛みを取ったし、目の下の涙袋も取った。眉のアートメイクもしているし、また糸リフトも2回ほど入れている。髪は力が無くなるとAGAの薬を飲んでいる。
そして、これも若さと関係あるんじゃないかと思うが、住まい方というのもあるだろう。自分の場合は歳と共に都心に移動している。今まで住んだ場所は、横浜市港北区、世田谷区、目黒区、大田区、港区だ。世田谷〜大田区までは庭のある一軒屋だったが、カミさんと二人になり都心に住むようになった。やはり都内とはいえ、港区と世田谷、大田区では違う。ファッショナブルであるし、周りにいる人達も若い。特に田園調布に住んでいた頃は近所には老人ばかりだった。現在は港区のタワマンに住んでいるが、かつての庭のある一軒家も懐かしいが、庭の手入れや、家の老朽化の直し、ゴミ収集など面倒なことが多かったが、今はそういう手間もなく、無駄な時間を要することがない。
何となくだが、世の中にはこんな風に生きなければいけないんじゃないかという風潮があるように思う。例えば銀行を定年退職した人がアバンギャルドな老後を過ごしてはいないし、外資系金融で何千万と稼ぐ人もタワマンに住んで外車に乗ってワイン通でみたいな感じだ。それは決して老後だけではなく、いずれの世代にもあるように思う。1億総中流意識の名残かもしれないが特に日本はそういう意識が強い。つまり「らしくあれ」というのがあるのだろう。自分も上場していた時に年配の人に「君の会社は上場してるのかね?だったらもうちょっと上場会社の社長らしくしたらどうだ!」と言われたことがあったが、ものすごい抵抗感を感じた。いつも自分の好きにやってきた。逆に若い時の方が紺のダブルのスーツを着てビシッと決めていたがオラオラ感を出しすぎていたなと今思うと照れくさい。どこからそんな気持ちが生じるのかもしれないが、とにかく自分は自分の生き方でというのが人より強いのは確かだろう。しかし、そうする事になんら他人の制約も受けない年齢になったので、これからも好き勝手でいいじゃないかと思っている。かしこまった席には行かなきゃいいし、面倒に感じる人には会わなきゃいいだけだ。仕事もそうだ、受けなきゃいけない事はない、気にいる仕事ならやればいいし、気に入らなきゃ無理してやる必要などない。そんなことも若さの維持に影響しているのではと思う。
・運動(体幹、姿勢)
スポーツの事はいろんな角度で書いているが、中高年の皆さんに一番関係があることを言うと、年齢とともに体幹が弱くなってくる。よく老人が転倒することがあるが、あの原因は脚が上がっていないのである。脳が意識する膝の高さと実際に上がっている膝の高さに差があるのである。自分は昨年走り方を新しい走り方に変えた時に身体にセンサーをつけて走りや歩き方のデータを調べたが、実際に自分が思っている以上に膝が上がっていないことに気が付いた。膝を上げるには腸腰筋がしっかりしていないといけない。そして腸腰筋につながる腹筋、背筋など含めた体幹が大事だ。そこで体幹を鍛えることを中心にパーソナルトレーニングに通っている。そして姿勢だ。姿勢が良くないと体幹を通じて力が伝わらない。
体幹を意識した姿勢をとり、多少上げすぎかと思うくらい膝を上げればつまづく事はない。
つまづいて転ぶだけならまだしも、そこで骨折や捻挫をし、車椅子や松葉杖の世話になっていると筋力が弱くなる。筋力が落ちれば基礎代謝も落ち、太ったりすれば今度は膝が痛いとか腰にとかどんどん悪い方に向かってゆく。最悪寝たきりになればもうお迎えはそこまで来ることになる。そうならない為にもやることはこれ一つ。歩くこと。姿勢を正し、お腹に少し力を入れ最初は2Kでも。出来れは5K。これだけで健康が保てる。もう骨や関節、腱は加齢でどうしようも無い。あとは筋肉だ。膝周りの筋肉が落ちないようにしなければいけない。幸い筋肉は90歳くらいまでは鍛えられるらしい。何かのアクシデントで「運動ができなくなったらお終いだ。」くらいの意識を持たなければいけない。決して激しい運動ではなくていい。老人には老人なりの運動で筋肉量維持だ。体型別に長生きするかどうかで見ると多少太り気味の人が一番長生きらしい。多少太り気味の人はそれなりに筋肉量があるからじゃ無いかと思う。自分の経験からすれば中性脂肪やコレステロール値のコントロールさえしていれば、何でも自由に食べれば良いんじゃないかと思う。サプリや青汁とかも構わないが、適度な運動をして適度に食い、適度に寝ていればそんなに老ける事はないのではないだろうか。
・テストステロン
主要な男性ホルモンの中にテストステロンがある。これが低下すると悪玉コレステロールや中性脂肪が増え病気を起因することになる。そして免疫力も低下する。筋肉量が増えればテストステロンは増え、またタンパク質をしっかり取り(特に魚類)、亜鉛やビタミンDで補完される。一番の大敵はストレスらしいが、そういえば自分も現役の社長時代より今の方が健康具合は良いかもしれない。もちろん体力は以前の方があったが、身体全体の状態のバランスや血液検査の数値も今の方がはるかに良いと思う。無理をしないのが一番なのかも知れない。生い先は短いが、昔のハードワークの時代に比べたらストレスのない分、未来の事を考えられるし、心の状態も安定している。30年も社長をやっていたが日々売り上げのことが頭にない日はなかったし、資金繰りや人事や商品開発や店舗のことなど今から考えると目一杯のストレスを抱えていたのだろう。辞めてからは人付き合いも減るが、それでちょうど良いし、自分にとっては今いる友人たちでじゅうぶん満足だ。
今は毎日特別なこともないが、逆にストレスもなく適度な運動と世界のニュースを気にするくらいの日々だが、幸せな毎日だと思う。今のままいればテストステロンが減る事はないだろう。というか増えているんじゃないだろうか?
25階の自分の家からは東京の南西方向の景色が見える。今日も富士山が綺麗だと思う朝は気持ちがいい。もちろん階下に見える港区の街には魑魅魍魎の蠢く世界があるのも知っているし、今日も様々な人間模様が繰り広げられるのだろう。そういう社会だからこそ面白いし、随分楽しませてもらった。流石に今更新しい世界にどっぷり浸かろうとは思わない。ほどほどな社会との関わりで徐々にフェイドアウトしてゆくのだろうと思う。
若い人たちへ
・人生の山
自分達が主に生きてきた昭和、平成。日本企業は終身雇用、年功序列という仕組みの中で成長してきたが、個人的にもそういうレールに敷かれた人生設計をしてきたものだ。約40年間の社会人生活でいかに人生を築き上げるかが家庭にも組み込まれ、役職がついた、昇進した、役員になったなどで家庭の幸せの大きさが変化したと言っても過言ではないだろう。人生の山は大きな大きな60年強の山だ。いい企業に就職するために受験という登竜門をくぐらなければならず、その競争は子供の頃から始まっていた。そんな社会の仕組みがかつて日本を大きく成長させてきたのは歴然とした事実である。そしてバブルの頃には世界のTOP50社の中に30社ほどが社名を連ねていたのである。
しかし、今や世界のTOP50社の中にはトヨタ1社しか入っていない。つまり、それは昭和の頃からの企業の仕組みが通用しなくなったからであり、それと共に家庭の幸せシステムも過去とは違ってきているのである。今や年功序列など崩壊し(一部の企業では脈々と残っているが…)、年下や女性の上司が就いたり、キャリアアップのためにジョブホッピングも当たり前になった。そういう時代になったからこそ人生の捉え方も変えなければならない。年功序列終身雇用の時代はある意味ボーッとしていても先輩が手取り足取り教えてくれたし、会社の研修システムなども充実していたから、それなりの年齢になればそれなりの成長が担保されていた。しかし、時代は完全に変わった。世界のTOP50社の中には90年代に創業した企業が増えてきた。そういう企業に終身雇用などの概念はない。優秀な人が高い給料とポストを約束される仕組みだ。そんな時代になっての山は一つではなくなった。60年をかけた大きな一つの山ではなく、今は5年から10年をかけたいくつもの山が連なった連峰のような人生に変わってきている。もちろん人によっては3年の人もいるかも知れない。従って、今の若い人達はチャンスもものすごく増えたし、例え受験や、就活で思うようなところに行けなかったとしても、新たなチャンスはいくらでも訪れる。そう考えると若い人達はうかうかとしていられないが、選択肢が増えた分、人生設計のパターンもいろいろ増えて羨ましい時代になったものだ。
そんな中で一つ提案したい。先ず最初の山の就職だ。就職はどんな企業に入るかはそう大きな問題ではないように思う。自分の人生を振り返ると、どんな企業にいても学べることはたくさんある。特に大学でたての人には優良企業かそうでないかより、自分の考え方の方が大事なのである。そこで出来れば10年。つまりこの10年は起業なり、キャリアアップの為のトレーニング期間だ。出来れば大きな会社で専門部署に10年どっぷり居るよりは、そう大きくない会社でいろんな部署と交わることが出来るような仕事が良い。営業やマーケティングだけでなく、人事や財務経理なども学べれば尚良い。例え倒産寸前の企業であっても、なぜこの会社は倒産するのかがリアルに学べる事は大きいかも知れない。とにかく10年いれば一通り学べるはずだ。最初からトレーニングと位置付ければあらゆる事象が勉強になる。昭和の頃は40年という会社人生の中の10年だったかも知れないが、はなから10年で一区切りと思っていればその10年はとても濃い10年になるはずだ。そしてその先の人生にとっても大切な10年になる。その山を築き上げよう。
さぁ、次は起業だ。もちろん転職でも構わないが、出来れば起業することを勧めたい。何故なら得るものが違うからだ。転職ではやはりサラリーマンだ。せっかく10年のトレーニングを積んだのに、どうせバッターに立つならいきなり大リーグのバッターボックスでチャレンジしてほしい。トレーニングが無かったならそれは無謀というものだが、必死でトレーニングした10年なら大リーグで打てるかも知れない。起業するということ自体は昭和の頃に比べたら簡単だし、資金も銀行だけではなくVCからも集める事もできるし、また個人投資家も随分増えてきた。ま、しかし、ここは敢えて言うなら銀行を使って欲しい。創業資金は保証協会を使ったりすれば借りれるし、銀行から借りて返す、そして信用を築くという循環を必ず取り入れてほしい。そして起業したからには遮二無二事業に取り組まなくてはいけないのだ、着地も見据えて経営すれば良いと思う。会社が成長する限り未来永劫自分がオーナーとしてやり切るのか、いずれはどこかに売却するのか。もちろんどちらにしろ成功しない限り出来ない話であるからまずは一生懸命頑張ることだ。とにかく起業して10年続けられる人は100人中6人だ。しかし、10年の屈強なトレーニングがあれば打率3割はいけるのではないだろうかと思う。
そして10年企業を育てられたら、考えてみよう。このまま頑張るのか、売却するのか。何故なら自分の経験上、10年までは情熱や勢いでなんとかやれるかも知れないが、成長期から安定期に入るその頃になると仕組みがないと継続できなくなる。もちろん最初から仕組みづくりを行い、10年経っても更なる成長が担保されているようであれば構わないが、往々にして何年か単位で中身を変えざるを得ないことが起きてくるものだ。そして人間遮二無二頑張れるのもいいとこ10年だ。なかなか年齢とともに頑張りも効かなくなる。自分の場合は65歳までやり通したが、今思うと情熱や根性から仕組みに変え、組織で動くように変えてきたから続けられたが、逆に個人的に面白かったかというと、40代の頃が一番楽しかったんじゃないかなぁと振り返って思うのである。そう思うとやはり10年で新しく山を作り上げるくらいが良いのではと思うのである。またその年代に売却し、それなりの現金を得ると言うのはその後の人生が変わるという事もある。もちろん上場してそれなりの現金が入る場合もあるが、40代で得るのと60代で得るのでは違う。やはり血気盛んな40代にそれなりの現金が手元にあるというのは、それ以降の人生の厚みを増す資金だと思うと早すぎる事はない気がする。それは60代で得てもそれ以降体験することは限定されるからだ。自分の場合は40代での上場時、65歳での株式売却時、68歳での株式売却時とそれなりのキャッシュを得たが、やはり40代で得たことはその後の人生においてはとても大きかったし、68歳で得たものはもうどう後世に残そうかというような発想にしかならざるを得ない。
仮に会社を売却し、それなりのキャッシュを得たらその後どうするかが3つ目の山だ。一生を楽にできるほどの額なら確かにもう働かなくても良いかも知れない。それも良いだろう。しかし、まだ人生残り半分はある。もう一度起業するのはもちろんありだが、そこで自分が勧めたいのは今までよりも楽にストレスなく働くことだ。時間も目標もなくても構わない。楽に社会と関わっていることである。会社というのは歳を取らないが、人間は歳をとる。創業の頃の情熱やハードワークはいつまでも続かない。最初の起業はそれでこなしても2度目の起業は熱量で勝負をかけるものではないだろう。となるとのんびりで良いのではないだろうか。家族との時間も大事だし、友人たちとの交流も大事だ。そんな三つ目の山が築ければ楽しい中高年を迎えることができる。
そして最後の山、終活だ。4つ目の山はそう高くなくてもいいし、丘ぐらいで良いのかも知れない。終活という山はいかになだらかな坂を降りるかだ。家族にもそれなりのことが出来たか、社会にも還元できたか、そして自分の人生が良かったと思えるかどうか。そう思えればいつ迎えがきても悔いは残らない。
かつての時代は大きな一つの山の人生だった。だがこれからは4つの山の人生。自分の場合今は3つ目の山だ。4つ目の山を意識しながらのーんびりと3つ目の山を楽しんでいる。
一つ目のサラリーマン時代の山も険しかったが本当に勉強になった。2つ目のFrancfrancという山は大きかったが無事に登頂できた。今は緑豊かな山を登っている感じだ。たまたまこんな人生だが、これからの若い人達にはたくさんの山に登って欲しい、どの山からも素晴らしい景色が見えるはずだ。
・お金を意識する
前章でキャッシュを得るということを書いたが、どれくらいのお金があれば良いのだろうか?イーロンマスクみたいに60兆円ある人もいるが、それは論外としてだ。
地方や郊外に住むならばこれまた別だが、もし今現在東京港区で持ち家、車、子供の教育、別荘を持つ生活を営むならザクっと最低10億円が必要だ。何故なら都心部の不動産価格は坪あたり2千万円。もし親子4人で港区の100m2のマンションを買うなら6億円だ。教育費も将来海外留学などもすれば2億、別荘が1億として大体そんなものだ。もちろん住宅を賃貸にすればだいぶ変わるかも知れないが、家賃も月150万円ほどは要るので10年で2億円近くになる。それでも港区ではそれほどリッチに見えはしないが、では税引後10億円のキャッシュを得るとなると正直外資系金融マンじゃない限りサラリーマンでは難しい。ChatGPTによると10億円以上の金融資産を保有している人は概ね日本で3万人らしい。そう思うと10億円という金額に届くには相当難しいように思うかも知れない。
が、しかしだ。税引後10億円ということは逆算すれば株式価値で12.5億円の会社を売却すればいい。株式価値12.5億円の会社というのは業種にもよるがザクっと年間1億円のキャッシュを生み出し続けられる会社だ。そう思うと頑張ればつくれそうな気もするのではないだろうか。10%の利益率なら売上約10億円ほどだ。ラーメン屋1軒じゃ難しいが、15軒ほどなら可能性はある。売却に際し、大事なのは利益の継続性と、属人的ではない仕組みで回っているかどうかだ。オーナーもしくは誰かが抜けたら続かない事業では売却できない。
いろんな起業家がいるが、ひとまずはこういうような目標を立ててはどうだろうか?もちろんお金がマストではないのはわかるし、いろんな人の考え方、生き方があるのもわかる。また地方都市では状況も違う。全て理解した上でそんな話をと思う。しかし、お金が無いのは困るが、あるに越した事はない。どうせ起業するなら、最低でも10億円以上の価値を生み出すような仕事にしたらどうかと思う。そして仮に10億円をそれなりの金融機関で運用すれば大体10年で倍になる(年利7%で)。もちろん儲かった分には税金がかかるが半分取られても15億円だ。つまりいくばくかのアセットを持てば、そのあとはお金がお金を稼いでくれる。金融だけではなく、不動産などへの投資もあるだろう。そういう領域に入れるかどうかで将来の人生は大きく変わってくる。何度も言うが、お金は幸せの尺度ではない。しかし、お金を意識しながら人生を組み立てることには大事な意味があるように思う。
・旅
自分の唯一の後悔は暇な学生時代にバックパッカーで世界を見て回らなかったことだ。そして初海外は25歳の時に新婚旅行でヨーロッパを訪れた。サラリーマン時代はそれほど多く旅に出たわけではないが、Francfrancが軌道に乗り始めてからは輸入品が多いこともあり、年に何度も海外に行く機会が増えた。基本はヨーロッパとアジアだが、出張に休日をプラスしてあちこちプライベートで訪れた。香港に6年間ほど住んでいた時は近隣のアジア諸国に週末出かけたりしていた。もちろん行きやすい都市は何度も訪れるが、容易に行けないブラジルやコロンビア、アフリカなどは今だに思い出深い旅であった。また定点観測的に毎年訪れるパリやNYなどはその変化が面白い。
旅の目的はもちろん仕事が一番多いが、見知らぬ土地に初めて立ち、ガイドブックなどはあるものの自分の嗅覚で街を知ってゆくというのは醍醐味ではなかろうか。人生で一度も危ない目に遭った事はないが、30年ほど前の深圳、20年前のケニア、10年前のブラジルなどは身の危険がすぐ隣にあるような雰囲気だったし、一つ間違えれば実際に何か被害に遭っていたかもしれない。それでも旅を通じて見聞を拡める事はかけがえのない経験になるだろう。引退してからというもの、コロナ中も含めてほぼ毎月のように海外に出かけている。2022年にはイタリアのボローニャからスペインのバルセロナまで1500キロほど車で旅をしたが、大陸は車の旅が楽しい。1日走るのは200キロほどだが、車でしか行けない素敵な街があるととても嬉しくなる。かつてLAからサンフランシスコに旅した時もペブルビーチやカーメルの街は楽しかったし、NYからモントークまでの時も同じような経験をした。大概の旅は誰か同伴者がいて、例えば友人だったり、家族だったりするが、一人旅というのもたまには面白い。たまたま一人出張になったシカゴでは毎晩ミシュランの星付きレストランを訪れたが、どこの店も不憫に思ってくれたのかスタッフが声をかけてくれたり、ワインをサービスしてくれた。またイタリアでも同じように親しく話しかけてくれたので寂しい思いはしなかった。
自分の場合はライフスタイルに関わるビジネスをしてきた関係上、どうしてもその都市に行くとそういう店を回ることが多いが、また新しいビジネスのヒントを多く掴み取ることができる。かつて経営していたサーフスタイルの店は世界中のサーフショップを巡って出来たものだし、ALAUBEというブランドも都市と海の関係性からヒントを得たものだ。もちろん日本でも伝統工芸などのある街は楽しいし、どうやって現代の暮らしの中の溶け込ませようかと翻訳している時間がとても好きだ。まだ日本では秋田と愛媛は訪れたことがないが、いずれ日本もゆっくり車で旅しようと思っている。日本の地方都市はほとんどロードサイドの店とモールなどあまり顔つきが変わらないが、名所旧跡でも訪れ、その街の歴史を振り返ってみたいと思う。またライフワークとして日本の工芸品をグローバルに発信できたらと思っている。もちろんそのままの商品で通用する場合もあるが、大概はグローバル用に編集する作業が必要だ。デザインであったり、仕上げであったり、サイズであったりだ。そんな商品がこれから少しでも集められたら楽しいし、海外向け発信を行いたいと思っている。
パスポート取得率の低い国日本だが、海外だけでなく国内も含めいろんな旅をしてほしい。
もちろんネットでもいろんな情報は取れるが百聞は一見にしかず。そして何よりも自分の嗅覚や人間力が試される。もちろん多くの失敗から学ぶわけだが、その感覚を研ぎ澄ませることは何となくだが生きる術や、ビジネスにも繋がっていくような気がする。まさにリアルに勝るものはない。
・恋愛
こと最近は恋愛をしない若者が多いらしい。酒も飲まないし、恋愛もしないし、当然SEXもしない。
思うにネット社会になってからは人と会う時間が少なくなっていると思うし、そういう中で業務という仕事などはこなせるかもしれないが、人と会わないとなかなか恋心は芽生えないものだが、ネット上のコミュニケーションが主になってくると、リアルに会ってコミュニケーションすることが苦手になっている人も多いのだろう。電車に乗ってもほとんどの人がスマホに向き、他の乗客のことを気にしない。スマホがなかった頃は何となく乗客を見回し、「あの人かっこいいなぁ」とか「あの子可愛いなぁ」と無意識に思ったものだし、だからどうなるものでもないが、何かのキッカケになる可能性はあったように思う。
酒を飲まない、つまり盛り場に行かないのも出会いのきっかけを失っているのだろう。もちろん男女が出会うキッカケはそういう場所だけではなく、あらゆる場面であるのだろうが、酒も入り気が大きくなったり、本音で話したりすることで男女の意識をすることが多い。昼間に出会って恋愛関係になるよりは、圧倒的に夜に出会って恋愛に発展することが多いのではと思う。
自分の経験上もあるが、例えば何かにものすごく集中して打ち込んでいる時間が続き、例えば1ヶ月とか3ヶ月とか…。そしてそれが完了して、急にシャバに出ると何かスッと社会に溶け込めない時間がある。少しずつ慣れていく感じだ。おそらくそういう状態の若者が多いのではないだろうか?ネットの中で多くの時間を過ごし、口を開いて話すことが少なくなった人達はいきなり饒舌にはなれない。そして無口で済むネット上の方が安住できると感じる。まして異性の人に自分でストーリーを描きながら恋に結びつける会話など到底至難の業だと思ってしまうのだろう。そして今や日本は未婚率も上がり、少子化問題の大きな要因になっている。少子化問題解決のために恋愛しろとは言わないが、恋愛をすることは人生にとってとても大きな豊かさの源になっている。
経営者と恋愛との関係性もある。
先輩経営者の方が著書にこう書いていた。「何の為に仕事を頑張るかって?そりゃ好きな女に『あんたって凄いね』って言われたいからだよ。」と。彼女は何の仕事をしているか詳しくは知らないが、事業のことが新聞に載ったり、マスコミに取り上げられることで自分を評価してくれるということらしい。
自分の場合はあまりカミさんに仕事の話はしてこなかったが、やはり愛する家族を幸せにしたいという気持ちのエネルギーはとても大きいものだったと思う。年収1千万に、事業を10億円に位から始まり、3千万円、5千万円、1億円と年収は増え、事業も100億、200億、300億と増えるにつれ、ますます意欲が湧いてくるものだ。そういう男の事業欲に女が惚れるのもわかる。よく「英雄色を好む」というがあれは色だけを好んでいるのではない。正確には「英雄色も好む」だ。つまり欲がある人は事業にもあるが、遊びにも欲があり、異性にもある、また所有欲もある。つまりいろんな事に欲があるわけだ。そして欲を満たすには
更にカッコ良くなろうと仕事に頑張るわけだ。
そして逆の方から見れば、欲がない人は恋愛にも欲が湧かないわけで、何に対してもこんなものでという限界を自分で決めてしまう場合がある。
よく「恋愛していると喜びは2倍に、悲しみは半分に」というフレーズがあるが、確かにそういう力を持っていると思う。共に喜んでくれたり、悲しみを共有してくれたり本当に信頼できる相手との恋愛は素敵なものだ。人間として生まれた以上、誰かと雌雄の関係を築き、子孫を産み、時代を繋いでいくことが本来DNAとして仕組まれている事に従って生きることを出来ればお勧めしたい。
・結婚
恋愛が成就し、相手への信頼感や尊敬の気持ちで繋がってくるといざ結婚という話になってくる。今の時代、結婚がマストではないし、結婚すれば幸せが訪れる保証もない。もちろん幸せになれないなら離婚という選択も簡単だし、あまり難しいことではなくなってきた。つまり結婚は人生の一大決断であった時代も終わり、とにかく1回は結婚しておくか的にする人も多いのだろう。そういう意味では結婚自体よりも、結婚して家庭を営み続ける方がはるかに難しい。新婚何年間かは新鮮だろうし、恋愛時代とは違う安心感も湧くだろう。そして子供が生まれればこれまた大変だが、大変なりにも家族が増えた喜びで楽しくもあり、様々な出来事も多くなる。その間に女性は彼女から妻になり、そして母になってゆく。そうなってくると新婚の頃のラブラブモードではなくなり、子供の事や、家庭の事、親兄弟の事など、たくさんの家族事を考えなくてはいけない。またパートナーの良い部分だけを見てきた恋愛期間に比べ、結婚生活はイヤなこと、嫌いな部分もたくさん見えてくる。が、そうしているうちに疲れてきたり、「何の為に結婚したのだろう」などの疑問も生じてくる。なんだかんだ言って独身の方が楽だろう。それでも結婚して良かったと思うには、恋愛感情とは別なものがいるのではないだろうか。自分が思うにはもちろん恋愛感情が長続きするに越したことはない。しかし、人間は飽きるというDNAも備えている。惚れた腫れたの恋愛感情はそう長く続いてくれない。つまり夫婦の関係持続のファクターは大きな意味での愛ではあるが、恋愛感情ではないと思う。では何か?相手に対するリスペクトと思いやりだ。これが無いと何十年も続かない。恋愛感情などせいぜいもって数年だと思う。若い時の恋愛事情を振り返ってみてほしい。ほとんどの人がせいぜい長くて二、三年の恋愛関係ではなかろうか。つまり好きという気持ちが二、三年しか持たないからである。もちろんもっと長い短いはあるだろうが…。またこんな言い方をするとカミさんから叱られるだろうが、結婚はタイミングだ。一番多感な時に知り合い、一番エネルギーがある時に付き合っている相手と結婚しがちなのだ。相手が自分にとって世界で一番相応しい人かどうかは誰もわからない。おそらく未来の結婚相談所はAIが好みや性格分析を行なってより相応しい人を見つけてくれるだろうが…。そんな関係を一生共にするとなれば、そこには我慢や忍耐も必要になるし、言い争いも何度もあるものだ。つまり、それらをも包み込む愛情が根底にあればこそ長続きできるというものだ。自分の場合は特に離婚もなく、一人の伴侶を大切にしてきたわけだがそれは振り返ってみれば山もあるし、谷もある結婚生活だった。しかし付き合い始めから数えて50年経った今感謝こそすれど、若い頃のような恋愛感は正直別なものに変化している。それは信頼感や思いやりだと思う。残り20年ほどの人生だがカミさんと結婚して良かったと思うし、これからの時間は若い頃に我慢せざるを得なかったような事を細々と楽しめれば良いのではないかと思う。
最初に書いたが、結婚は幸せの保証ではない。が、しかし、他の動物も含め雌雄の関係から子孫を残してゆくという生物学的な行為と共に、家庭を育むという人間独自の営みは経験出来るならして損はない選択ではなかろうか。
・徳を積む
「目標を持ち、その目標に向かって困難を乗り切り、手中にしてゆき、成功を収める。」という人生の途上にいる人はそれに向かって邁進していただきたい。しかし、20歳そこそこではまだ「何になりたいかわからない」「どういう人生がいいのかわからない」「毎日がそこそこに暮らせればいい」などの思いの人が大半ではなかろうか。かくいう自分もそうだった。遮二無二働いてはいたが、将来どうしたいかなど考えることすらなかった。しかし、親や年上の人や、世に出ている本などではしきりに「目標を持って生きろ」などと言われる。幼い頃の「野球選手になって大リーグに行く」「〇〇君のお嫁さんになる」など可愛い目標ならいざ知らず、「そんな風に言われてもねぇ、どうしたらいいかわからないヤァ」という人が殆どではなかろうか。自分はそれでいいと思う。無理して何かを掲げたところでおそらく行動が伴っていかないはずだ。目標が無いなら無いで良い。平々凡々と過ごしても良い。しかし、一つだけ心がけてほしいことがある。それは「徳を積む」ということだ。特に一日一善とかを無理にする必要はない。簡単なことで良いのだ。徳を積むということを後に列挙するが、ちょっとした心がけでいいのだ。しかし、それをしたからと言って何か良いことがあるということではないかもしれないが、ある意味人生の徳ポイントみたいなものだろうか。世の中には人を出し抜いてやろう、騙してでも自分の利になるようにしよう、見られていなけりゃサボろう、ズル賢く生きようなどと思っている人も大勢いるだろう。しかし、やっぱりどこかでお天道様は見ていると思う。日頃からズル賢い人には何か天罰が降りてくるし、徳ポイントが貯まっている人には、良いことが訪れたり、何かを行う時にうまく行く可能性が高くなるような気がする。やはり普段から徳ポイントを積んでいる人はいつの間にか他の人から信頼されたり、困った時に助けられたり、あるいは良い運気が訪れたりするものだと思う。もちろん科学的根拠など何もないが、見ている人は見ているものだと。それが世間というものではないかと思うのだ。とかく世知辛い世の中ではあるが、自ら挨拶をしたり、ゴミを拾うことに何ら損することは無いと思う。面倒だと思うかもしれないが、徳を積まなかったせいでもっと面倒なことが訪れるかもしれない。何度も言うが根拠は何もない。しかし、義務的に徳を積む行為をするのではなく、そう心掛けているだけで心が落ち着くし、穏やかさが表情に現れてくるのだと思う。何を古臭いことを言ってと思う人が多いかもしれない。
しかし、自分の人生を振り返った時にツンツン、オラオラしていた若い頃に比べ、あまり慌てないように、そして相手の話を聞くように、挨拶はこちらからなどを心がけるようになってからの方が毎日幸せな気がするのだ。何か信仰している宗教があるわけでもないし、八百万の神様で良いと思っている。そして神様だって気持ちがあるのではと思う。日頃の行いを見て、この人には良い事を授けよう。この人には天罰だ。などがきっとあるのだろう。しかし、当てにしてはいけない。目標もなく、だらだらと過ぎてゆく毎日はつまらないかもしれないし、退屈かもしれない。張り合いがないかもしれない。しかし、人生なんて大概の時間はそんなものです。毎日やりがいのある日々が続く人は稀です。そんな平凡な時間でも心掛け次第では少しは豊かな時間になっていくように思います。
徳を積む
・持ち物を大切に扱う
・出来ないかもしれないと思ったことでも、与えられた仕事や役割は精一杯行う
・家族に感謝の気持ちを持ち、毎日笑顔で挨拶する
・仕事で関わる人を、自分の大切な人と同じように思いやりの気持ちを持って接する
・辛い思いをしている人には優しい言葉をかける
・「ありがとう」「嬉しい」など相手の人が喜ぶと思う言葉を選んで使う
・嫌な思いをしても、許す心が大切
・失敗した人に寛容でいる
・悩みがある人の話を気が済むまで聞いてあげる
・時間は戻ってこない事をしっかりと認識して、時間を大切に扱う
・約束を必ず守る
・自分が得られなくても、相手に与える
・正直で素直であるように努める
・この世に生を受けたことに感謝する
幸せの考え方
・何が幸せなのか(線の引き方)
幸せとは何なのか?いかに多くの人達がその問いかけをしているのだろうか?誰が見ても幸せ以外の何者でもないだろうと思うような人でも「自分は不幸だ」と思っている人もいれば、貧しい暮らしでも「幸せだ」と思っている人もいるだろう。自分も今だに何を持って幸せというのか定義がわからない。そして同じ幸せは長続きしないものではないかとも思っている。それは何が幸せかではなく、何を幸せと感じるかであって、同じ条件でも幸せに感じる人と、不幸せに感じる人がいるのである。つまり心の有り様が幸せの価値観を決めるのであろう。特に自分の場合は天邪鬼でせっかちな性格を持ってして飽き性である。従って、ああなったら、こうなったらと思いいろんな目標をクリアしてきたつもりだが、クリアして状況が変わればそれなりに多幸感も感じるが、またその幸せも飽きてしまい、次の目標を描いてしまう。つまりいつまで経っても本当の幸せに辿り着けなかった。また非日常のスペシャルなことに幸せを感じるようになっていたせいか、次々と何かを追い求めていたように思う。ところが引退してみると、それなりに時間も出来、ヒマも増えてくるがなかなかヒマを楽しめない。何かをやっていないとつまらない性格なのだろう。
人生は山谷ありだが、仮に山が良いこと、谷が悪いこととしよう。仮にその良い悪いの境界線を下に引ける人は人生のほとんどが幸せに感じる。また上の方に境界線を引く人は人生のほとんどが不幸に感じる。二人とも同じ山谷なのに、幸福度は違うのだ。冒頭に書いたが、朝のワイドショーを見て幸せを感じることなど現役でやっていた頃には皆無だった。どこに行くにも目的があり、無目的に歩くことなどなかったが、コロナ禍では散歩というぶらぶら無目的で歩く中にも街で見かける出来事に少し興味を持ったりするものだ。そういうことに気付くことで、散歩が楽しくなる。それも幸せの小さな一つだと思えるようになってきた。お金がない、運がない、会社が悪い、上司が悪い、世の中が悪い、親が悪いなど不満を言って自分は不幸だと言っている人も多いだろうが、お金がないのは困るがそこそこあれば不幸ではない。運は誰しも平等だ。運気をわからない、掴めないだ気ではないだろうか。会社も上司も反面教師という見方をすれば全て学びになる。世の中はみんなに平等だし、いつまでも親は当てにしない方が良い。全て考え方次第だと思う。
人間には欲というものがある。欲は求め出したらキリがない。そして飽きるということもある。これは何をやっても人間いずれは飽きてくるものなのだ。自分が歳をとってわかることだけど、例えば若いうちはA級グルメを毎日食べることが出来るが、歳を取ればたまにはお茶漬けも食べたくなるし、A級グルメに誘われても適当な理由をつけて断ることもあるものだ。それは決して贅沢をしたくないからではなく、食べたくないからなのだ。旅行も然り。毎月のように海外に行くが、やはり多少のインターバルが無いと疲れてくる。夜の飲みもそう。毎日続けば飽きもくるし、身体も疲れる。つまり若い時の幸せは、歳を取ってからの幸せとは違うのです。そんな風にどんどん価値観は変わってゆくものだろう。ただこれだけは言えるが、際限なく求める年代もあるが、たまに立ち止まって足元を見てみれば、小さな幸せというものが転がっているはずだ。我々はいくつもの幸せを見逃しているだけなのかもしれない。自分も仕事に燃え尽きて家庭を顧みなかった頃が続いた。しかし、少し振り返ってみれば家庭の中にももっと幸せを見つけられたはずだろうと思う。今更後悔しても始まらないが、今になって幸せとはそういうものだろうと感じる次第である。
・君子危に近づかず
普通に生きていても危険とは隣り合わせかもしれない。いつ事故に巻き込まれるかも知れないし、安全運転をしていても追突される場合もある。
また、人も同じように危害や迷惑を及ぼしてくる場合がある。理由もなく恨まれる場合もあるだろうし、単に営利目的で騙そうとする人も大勢いる。実は意外に世の中にはたくさんの危うい人がいるのじゃないかと思う。一番良いのは目立たぬように影を潜めて生きることかも知れない。よく真のお金持ちは品性があるが、決して贅沢を表に出さないと言う。それは贅沢を出しても良いことがない、むしろ悪い連中が寄ってくるということかも知れない。悪い人だけではなく。こんな話もある。「なんでも鑑定団」という骨董品などの鑑定をする番組は有名だが、ある人が友達から100万円の借金の見返りにもらった壺が500万だったというのが放送されると、その人の所に後々税務署が現れるらしい。「あなた400万円儲かりましたね?納税して下さい。」と。これも目立ってしまったからだろう。ま、税金ですから文句の言いようはないけど…。
しかし、最近の詐欺事件も含めて、一般的に不用心な人が多過ぎる気がする。例えば、携帯にかかってきた知らない番号の電話に出る人を見かけるが、自分は出ないようにしている。出ても良い電話ではないことが多いからだ。車を売る時や不動産などを売る時にネット上の一斉見積もりなどに電話番号を登録すると恐ろしいほど電話がかかってくるが、そういうのも出ない。もしそれが良い人なら留守電を残してくれルはずだ。電話だけでなく、メール、SM 、SNSなどいろんなアプローチでいろんな人が近づいてくるが、ほぼこちらが必要としている人は少ないものだ。そういうのをイチイチ返信したり、相手にするのは時間の無駄でもあり、下手をすれば騙されたり、個人情報を取られたりする場合もあるだろう。
また、以前からよくある投資詐欺だが、世の中にうまい話などないと思う。本当に裕福な人は詐欺に引っ掛かることはないが、小金持ちが引っ掛かる。なけなしの老後の資金を取られたりする人がいるが、騙されないようにして下さい。「儲かる話があるんだけど…」は100%騙される話だと思った方がいい。。ましてやロマンス詐欺など論外だ。あなたそんなにモテてました?
先述したが、本当の金持ちは地味に生きている。ウォーレンバフェットさんしかり、ビルゲイツさんしかり。しかし、みんなお金を持つと目立ちたがる。洋服、車、別荘、愛人などオラオラ感を発してくる。本人に合うスタイルとして見られれば構わないが、あくまでオーバーイメージに感じるようなイメージはやはり危うい人が近づいてくる。SNSブームですが贅沢なシーンばかり発信しているとこれまた良からぬ人が気にしてくる。SNSのせいで承認欲求の塊みたいな人が増えたけど、税務署含め虎視眈々とそういう人を狙っている人がいることも忘れてはいけない。
・人間万事塞翁が馬
自分の座右の銘はいつもこれ。中国の諺だが、人生の幸不幸は予測できないことを意味している。
「塞翁が馬」の由来となったエピソードは次のとおり。
① 塞翁が飼っていた馬が逃げた
② 周りの人々は塞翁に同情したが、塞翁は「これは幸運だ」と言った
③ 逃げた馬が別の駿馬を引き連れて戻ってきたが、その駿馬が塞翁の息子を振り落として足を負傷させた
④ 周りの人々は同情したが、塞翁は「これは僥倖かもしれない」と言った
⑤ その後、戦争が起き、周りの若い衆は徴兵されたが、塞翁の息子は足を負傷していたため徴兵を免れた
「塞翁が馬」は、不幸は幸福を呼ぶこともあり、幸福が不幸を招くこともあることを教える寓話だ。
要は嬉しいこと、楽しいことは長くは続かない。しかし、苦しいこと、悲しいことも長くは続かないという理解でいる。経営者の時にこの言葉がいつも頭の中にあり、たとえ業績が良くても、「こんな調子がいつまでも続くわけがない、今はまぐれだ。」と思い、次なる手を打ったり、更なる引き締めを行ってきたつもりだ。また業績が悪くても慌てずに中長期的な視野で対策を講じていた。人は成績が良いと過信する。自分の実力以上の勢いで成長している時ほど要注意。まぐれを自分の実力と勘違いして、「積極果敢に過大投資で大失敗」などはよく聞く話だ。
わかりやすい日本語で言うと「良いときも調子に乗るんじゃないよ。また悪い時も我慢してりゃだんだん良くなるさ。」ということで、常に慌てずに平常心でいろということではないだろうか?
・友達
人生において友達という存在は大きい。中にはSNSで繋がっている友達を指す人もいるだろうが、それは本当の友達とは言い難いが、逆に友達が一人もいないというのはちょっと寂しいものだ。自分の場合は例えば学生時代の友人もいたが、この歳になってはあまり付き合いが無いのが正直なところだ。たまに行われる高校のクラス会にも顔を出す時があるが、やはり地方の街福井での話題にはあまり好ましい話もなく、懐かしい昔話はすれど、病気の話や薬の話になってしまうし、中には亡くなった人もいて何とも言えない雰囲気になってしまう。そういう意味では今付き合っている人達が友人としてこれからもお世話になるのだろうと思うが、単なる友人、仲の良い友人、そして親友と分けられると思うが、それぞれ100人、50人、5人くらいではなかろうか。それほど親友と呼べる人は少ないし、少なくて良いのじゃないかと思うし、決して数では無いと思う。
自分の場合は共通の趣味でいろいろチームに属しているので、そこそこの友人がいてありがたい。一つはトライアスロンチームでもう結成して20年近くになるがメンバーも40人ほどいるので、レースだけでなく、忘年会や納涼会、また普段から飲み食いしながら交流している。また9割以上のメンバーは経営者なので共通の話題も多く何かと仲良くしている。またスキーやサーフィンでもそれぞれチームがあり、年に何度か合宿みたいなことをやり、寝食を共にすると親近感も湧いてくる。ただ、どのチームにしても自分が最年長なので友達というか、若い連中に世話になっていると言った方が相応しいかもしれない。
また、スポーツクラブや業界の先輩方の友達も多くいるが、先輩方は先輩としてありがたいアドバイスをもらったり、生き方を学ばせてもらっている。またよく奢ってもらうがお返しは「後輩にしてやれ」と言われる。先輩から奢られ、教えられ、後輩に奢り教えてゆく。こういう繋ぎがとても大切だと思う。これも神様は見ているんだろうなぁと思う。仲の良さも時間の経過とともに変わってゆく。以前仲が良かったけれど、今はそうでもない人もいるし、逆もある。自分は無理せず自然の流れでというのが一番良いと思っている人。長い人生の中には友達だが借金を頼まれる時もある。たいそうな額の場合は断るが、少額であれば返ってこないつもりで貸すこともある。もちろん親しい仲での話だが。そして大概は返ってこないものだ、そして友達という間柄も終わってゆく。逆に考えれば、おそらく友達という関係を絶ってでも困っていたんだろうと思うし、やはり貸し借りが生じるとどうしても気まずい関係になりがちだ。それは対等の立場ではなくなるからだと思う。従って、どうしても寂しい気持ちで貸さざるを得ない訳だが、人生には様々な出来事があるものだ。少しでも友達の役に立てたのならそれで良しとしなくてはと思うのである。
いつか人間は最後には家族も友達もおいて一人で死んでゆく。誰かが言っていたけれど「人間生まれてくる時は泣きながら、そして周りの人が笑っている。また、死んでゆくときは自分は笑って周りの人が泣いている。」と。そんな人生が送れたらいいのじゃないだろうか。
・カウンセラー
数年前から女性の心理カウンセラーの人と月に2回ほど話をしている。発端は他の理由だが、ネットで探してお願いをするようになった。カウンセリングと言ってもほぼ世間話や最近の出来事の話をするわけだが、彼女はこの数年間の自分とのコミュニケーションが記録してあり、心の変化を感じ取ってくれているのであろう。長い付き合いの中で時たまズバッと心の中を言い当ててくれるのと、「こうしたらいいよ」というアドバイスをくれる。ただ自分としてはそういうアドバイスよりも自分の行動や思いを吐露することの利点の方があるんじゃないかと思う。吐き出すことによって心がリセットされてゆくのだろう。いい意味で+―ゼロの座標軸に心が置かれてゆく。彼女曰く人間の80%は精神異常者らしい。かのスティーブ・ジョブスも発達障害だったらしい。だとすれば自分も異常者だし(事実そうらしい)、起業し、会社を大きく成長させる人など殆どが異常者でないと成し得ないような気もする。事実約30年間常に目標を掲げ、それをクリアすることに心身ともに染まりきった自分は引退してからも今だに目標を失って彷徨っている感じだ。時間はもちろんあるのだが、ただ空虚な時間が過ぎてゆく。かと言ってその時間を旅で埋めても、スポーツや読書などで埋めてもあまり変わらない。そんな折、彼女は「ヒマを楽しみなさい」とも言うし、何かを追い求めた結果掴めるものが幸せではないともいう。「高島さんは幸せを求めるものだと思っているが本当は気づくものよ」とアドバイスしてくれた。確かに、カミさんとのんびり食べる朝ごはんも幸せだと思う。良い本に出会うよう本屋に行くことも楽しみだ。言われてから気をつけるようにしている中で見つかる小さな幸せがあるのは段々と理解してきた。
彼女とは今まで相当な時間話をしているが、先生ではない。おそらくいくつかの人間の心理状態のパターンがあるのだろう。その心理構造やそうなる原因などの仕組みがわかっているのだろう。しかし、そういう人が自分にいるのは良かったと思っている。何かと人は悩む、もちろん悩んで成長もするが、時として間違った判断をしてしまう場合もある。
例えば、彼女曰く子供は100%親の責任だと。引きこもり。治らないのは親が食事を与えるからだと。与えなければ腹が減るから出てくるし、お金がなければ親に何か話してくるという。そしてお金も与えなければ、何か働こうとするはずだと。確かにその通りだろう。甘やかすという親の判断、行動が子供をダメにしてゆく。近年、子供の自殺者が記録的な数になっている。全ては親が子供を救ってやれていない証拠だ。学業の成績や、通学、部活などの表層的なことではなく心の中に潜んでいるところまで汲み取ってやらないといけないのだろう。もう昭和の時代みたいに近所の人達も誰かれなく子供たちを見ていた頃とは違う。見えないうちにネット上の偏った情報で心が病んでゆくのかもしれない。子供達への正しい判断と行動の重要さが増しているが、それには心の構造を学ばないといけない。目先の状況に右往左往していては救えないのだろう。
常日頃、「心は短パンにビーサン」と言っている。短パンにビーサンを履いているときのようにナチュラルな状態の時に正しい判断ができると思っているからである。心が高ぶっている時や、荒んでいる時は正しい判断ができない。得てして自分は大丈夫と思っている人ほど思い込みというのもある。カウンセラーの人と話しているうちに自分を客観的に見るもう一人の自分に気づいてくる。自分を達観視してみると自分はどこに行きたいのだろうという思いがある。そしてほぼ無職に近い目標のない今の状態の中で無理して何かをやろうとしていないか、また怠惰な日々を過ごそうとしていないか、などいろいろ見えてくる部分もある。平々凡々と過ごしていればそれで良いのだろうが、長年の習性と言うものが邪魔をしてくる。元々多動的な性分だが「無理して動かなくてもいい」と囁くもう一人の自分もいて、たまにカウンセラーの人の前で吐露して鎮めてもらっているという状況だ。他人の目を気にすることはもう無いが「自分は自分」という証がどこかで欲しいのだろう。困ったものだ。
死ぬまでのこと
・多幸感
会社を辞めた時はそんなに感じなかったが、ここ2年ほどは些細なことに幸福を感じることがある。カウンセラーの人の言う「幸せに気づくことよ」というのが少しずつ理解できているのかもしれない。一番感じるのは何にも束縛も干渉もされない中で行動できることだ。昼から一杯飲んでも良い。孤独のグルメを愉しむのも最高だ。急ぐ必要も無いから都バスに乗ってのんびり移動も楽しい。環境には申し訳ないがV8エンジンの鼓動を楽しみながら独りドライブもありだ。本屋での長居すること、百貨店でぶらぶらすること。いつでもジムで運動すること。過去には全てに目的があったように思う。それが目的を持たずに行動するところに楽しさがあるのだ。以前は百貨店に行くといえばマーケットリサーチか買い物だ。しかし、そういう目的を持たずにぶらーっとしていると、以前では気付かなかったことに目がいく。例えば仏具とか、和の調理道具とか、和装とか今まで目もくれなかった場所に長居してしまう。そういう新しい知識にうなづいている時は幸せだ。また蕎麦屋で独りお決まりのつまみと日本酒をちびちびやりながら、店の人と会話をしたり、まわりの人間観察も楽しい。先だっても中年カップルの男性が女性を口説こうとしていたが、どうも会話が下手だ。何せ蕎麦屋で日本酒にするならまだしもワインの蘊蓄を語っているのだ。しかもその店にはワインは置いてあるが3000円ほどだ。そのワインを飲みながら口説いても彼女もピンときていないようだ。そんな人間ドラマを見ていると楽しくて仕方がない。また都バスも電車もみんな下を向いてスマホと対峙しているが、そういう人を見るのも楽しいし、やはり景色を楽しむことが何よりだ。昔は中吊りがあって、週刊誌などの見出しで世の中を知ったが、今は中吊りもなく、景色を見ながらボーッと季節を感じている。
本屋も好きな場所だ。新聞の下欄にある本の広告でAmazonで買う場合もあるが、時間があるとぶらっと本屋に行く。一番行くのは青山ブックセンターだが、洋書やアートの本もあり、つい1時間は過ぎてしまう。雨の日は洋書の割引があるし、重くても駐車場もあるので大量に買っても大丈夫だ。自宅机の上に読みかけの本が積んであるが、常に2、3冊の読む本が無いと落ち着かない。ジャンルはこだわらないが、あまり小説は読まないし、ビジネス本も今更感があり興味がない。昨年の引っ越しの時に必要な本以外は捨ててきたので今は書棚を埋めてはいないが、写真集や美術本などは捨てられずに残っている。昔、西麻布に本のあるBARがあったが、酒の飲める本屋があったら最高だけどなぁ。もしくは酒の飲める図書館とか。一人ワイン3杯までで、酒で本を汚したら買わなければならないとか…。
正直、今まで些細なことに幸せを感じる事はなかったし、やれ海外だ、イベントだ、サーフィンだ、スキーだとか、売上達成、利益達成、新規出店などのイベンチックなことばかりに目が向いていたし、それが幸せだと思っていた自分にとって、今は日常の中の些細なことの幸せに気付くことへのリハビリ中だと思う。30数年間生き急ぐように何かを追い求めていた生き方から、ゆっくり、じっくり些細なことに拘って生きてみる。何ごとも味わって生きるということだろうが、ひょっとしたら残された時間が深いものになっていくような気がする。「幸せは求めるものではなく、気づくもの」。良い言葉に出会ったものだ。
・死生観
中学時代の幽体離脱体験があったが、やはり60歳を過ぎた頃からか段々と死というものを意識するようになった。事故死は別だが、どんなに運動しようが、どんなに荒れた生活をしていようが平均80代で死ぬようにDNAに組み込まれている。そういう意味ではトライアスロンやサーフィンなど人よりはスポーツを嗜んでいるが結局死ぬということについてはあまり大きな関係性はないだろうと思っている。そして精神的にも会社を起こし、成長させそれなりに社会貢献もできたし、プライベートでも子供や、孫もでき、まずまずひと段落している現状をそこそこは満足はしている。つまり言い換えればもう人生に心残りはあまり無い状態だ。コロナで両親は失ったが、それでも94歳、87歳と長生きしてくれたと思うし。
人間の身体は割と単純なものだと思う。ご存知のように三大疾病はがん、心疾患、脳血管疾患だが、後者2つは同じようなもので血管系や血栓の部類だ。つまり血栓が出来ないように注意することが大事で血栓ができる要因は血管の狭窄や不整脈などがあるが、そもそも血液をサラサラにしておくよう中性脂肪やコレステロールのコントロール、つまり定期的に血液検査をして値を見ることが大事だ。生活習慣病であるから、食べ物や少しの運動で改善してゆくものだ。またガンは日本人に多い病気だが、他の国に比べて何かと我慢をする日本人はストレスを溜めやすい。そのストレスがガンになりやすい。従って言いたいことを言う。ストレスを溜めないない生活にできれば良いのだが。しかし、それらに気をつけていても死ぬ時は死ぬ。老化だけはどうやっても防ぐことができないからだ。筋肉だけは90歳ぐらいまで鍛えられるらしいが、関節や腱は衰えてゆく。内臓も然りだ。従って平均寿命を越したらあとは儲け物という感じではなかろうか。
日本は安楽死が認められていないが、自分は出来れば自分で死ぬボタンが押せたら良いなと思っている。もちろん死ぬのは怖いし、嫌だが、体が満足に動かせない状態や、認知症などになって抜け殻のように生きるくらいならそのボタンを自分で押したい。もちろん長生きに越したことはないが、それは五体満足での話だ。毎日薬漬けの寝たきりでは生きている意味も感じない。そしてもうそんなに人生に悔いもない。大概のことはやり切ったつもりだ。
美味いものもさんざん食った。行きたい場所ももうそんなに無い。いろんな体験もしたし、それなりに社会貢献もした。あとは順当な歳で死ねれば本望だ。
先日読んだ本でゼロポイントフィールドというのを知った。人の身体は死んで消滅するが意識は消滅しない。量子となってゼロポイントフィールドに戻ってゆく。スピリチュアルな話かもしれないが、幽体離脱の体験からか、もともと意識と肉体は別なような気がする。きっとあの体験と同じように、自分の身体の寿命が来た時、スーッと自分の周りを囲む人たちを見ながら肉体から離れてゆくのだろうと思う。言い方を変えれば宇宙に出かけるようなものだ。冷凍カプセルに入ってカプセルのドアを閉めるボタンは自分で押したい。愛した家族もいずれはゼロポイントフィールドで会えるだろう。そういう死生観でいるとなんとなく落ち着いた心境になる。地上であくせくすることも他愛のないことだ。いつか必ず来るであろうその時までのんびりしていれば良いのだろう。
・みなさんさようなら
フランス、カナダ合作の「みなさんさようなら(2003年)」という映画がある。ガンを宣告された父親のために息子が奔走しながら父の死を満足するようお膳立てする映画だが、最後は湖畔の別荘に父の愛人や友人や様々な人が訪れ、そこにハプニングも絡みながら愉快に死を迎えるという映画だが、その映画に見る死に方というのは最高の死に方ではないかと思うのである。ハプニングはあるものの最後はそこにいる全員に愛されながら死んでゆく姿は羨ましくもあり、ある種自分が思う理想の死に方だ。「もうじゅうぶん生きることを楽しんだから、みんなありがとう。」と言ってみんなに惜しまれながら旅立ちたい。
・いつ死んでも
カミさんがみてもらった占い師によると自分は長生きするらしい。どのくらい生きるのかは知らないが、今のように医者通いが好きでしょっ中血液検査をし、適度なスポーツをしていればおそらく長生きするだろうとは自分でも思う。ただし、大きな怪我さえしなければの話だが…。歳をとってからの怪我は治りにくいというが、治るまでに筋肉が落ちてしまうのが怖い。筋肉が落ち基礎代謝が落ち、肥満になり中性脂肪が増えたら嫌だなと思う。トライアスロンでの自転車からの落車、あるいはスキーでの怪我など危険と隣り合わせのスポーツをしているから要注意だが、普段からもつまづかないように歩いていなければと思う。今年早々に知り合いの女性がただ転倒しただけで亡くなったのはショックだったが、生きていることや死ぬことは普段から意識していないので現実として知ると自分のことと重ねて考えてしまう。ただ、「あなたは今年死にます」と言われても、死に方は気になるがそれならそれで何とか心の整理はできそうだ。これまでの人生を振り返り、お世話になった人達に何らかの挨拶が届くようにし、財産分与を決め、身辺整理をすれば良いだけだろう。いや、もう早過ぎる事はないだろうから、そろそろ終活は始めておこうかな。
どんな強い格闘家も、どんなに健康に注意している人も、医者も、大統領も、金持ちの人も、貧乏の人も、東大出の人も、中卒の人も、善人も、悪人もすべての人はいつか死ぬ。そして地位も、名誉も、お金も、家族も、何もかも持たずに裸一貫で死んでゆく。そう思うと生きている時間がものすごく価値あるものに感じるが、そこには生きてゆくことでの喜怒哀楽や苦労が伴う。死ねばそういうものから解放され、宇宙に漂う量子となると思うと生死のどちらの世界が良いのかわからない。人の一生とは壮大なドラマではあるが、宇宙から見れば儚いものだ。むしろ軸足を宇宙に置けば生かされていることの偶然性を感じてしまう。自分の生を達観することで死生観を意識する。そうすることでこれから先、新たに生じる出来事に一つ一つ深い意味を感じるのかもしれない。今だに会社を辞めずに経営者として過ごしていたら、決してこういう心境にはならなかっただろうし、まだ日々事業に奔走していたことだろう。事業という最大の背負っていたものを降ろしたことで見えてきたものが沢山ある。
そして新たに思うこともあるものだ。残された余命で何をしなければいけないのか。一番は人生の断捨離だろう。丸裸で死んでゆく時に、残された家族や友人や社会に託しておくものがまだ沢山ある。全てを託し終え、そして安心して眠りにつきたい。死を恐れるのではなく、人生を全うする喜びの日になるよう迎えられたら最高だと思う。
家族のこと
・両親のこと
あまり今まで話したことも無いが、家族のことについて触れようと思う。
福井の田舎町の農家に生まれた父は若い頃戦争に行きたかったらしく舞鶴の自衛隊に入隊した。結婚前に地元に戻り福井信用金庫に定年まで勤め上げ、その後2社ほど勤務し70歳頃に働くのを辞めた。趣味と言えば書道、株、不動産などの投資だった。愛読書は四季報で、常に株の話題をしていたが、大きな財を築いたというよりは4人の子供を育て上げ、多少の不動産を持つまでになった。無口なタイプで人付き合いも親戚程度であったが、信用金庫時代はどうだったかはわからない。農家の出身らしく河原で趣味の畑を作っており、いろいろな野菜を作っていたし、日々の食卓にもその野菜が多く出てきた。26歳で母と結婚し27歳で自分が生まれたわけだが、小さい頃はよくスクーターで山や海へ連れて行ってくれたのを覚えている。長男ゆえに可愛がってくれていたのだろうが、よく怒られもしたし、殴られもしたが、高校生になったぐらいだろうか、親父と取っ組み合いになった時に親父の力が弱くなっているのを感じてからは、自分が勝ってしまうんだなと悟り、少し寂しい気持ちになったが、もう親父と取っ組み合うことも無くなった。
母は仕出し、魚屋の娘として6人兄弟の末っ子だった。勉強をしたくて大学まで行きたかったらしいが、家庭の事情で行けずに地元の土木事務所で働いていた。母が22歳の時に父と結婚し、翌年自分が生まれた。自分が保育園に行くまではその土木事務所に行くバスで朝一緒に出て、自分は実家に預けられ一日中母の実家で過ごしていた。祖父の膝の上で叔父が魚を捌くのを見ていた記憶がある。母は自分が生まれた3年後、7年後に長女、次女を産み、なんと13年後に次男を産み、4人の子供に恵まれた。特にこれといった趣味もなく、子供が増えてからは土木事務所を辞め、メガネの内職をしていた。晩年の頃はママさんバレーをやったりしていたが、60歳ぐらいからだろうか、心臓が悪く何度か入院していた時がある。
両親は見合い結婚で結婚式まで3度しか会っていなかったとかで、昔とは言え恋愛という感じではなかったのであろう。あまり夫婦仲良くという場面も見たことがなく、亭主関白な父であり、家族揃って旅行というのも無かったように思う。
一時期父には別な女性がおり、自分が大学時代によく夫婦喧嘩をしているのを見かけたが、70歳ぐらいまではそれなりの存在の人がいたように思う。子供の立場でどうのこうのはないが、母が悲しんでいる姿はあまり見たくはないものだ(父も上手くやればいいのにと思った)。
両親とも長男の自分に期待していたのか、とにかく勉強しろとうるさかったが、まぁ、こっちは勉強が好きではないし、楽しいと思ったことは大学まで通して一度もなかった。就職は期待外れの会社にしか行けなかったが、起業、上場の際には結果オーライだったように思うし、親としてもやっと満足してくれたのではなかったかと思う。
田園調布に家を建ててからは正月には毎年我が家に来るようになり、賑やかな正月を毎年迎えていたが、晩年になり父が認知症を患うようになってからは母も荷が重かったのか正月に会うことも無くなった。
両親の死は今から思うとコロナワクチンのせいだと思う。母は1回目のワクチン接種後夏バテの後遺症のように身体がしんどいと言いつつ入院したが入院後1週間で亡くなってしまった。最後は肺炎だったが、あまりにも呆気なかった。一応知らせを受け福井の病院に着くまで医者は待っていてくれたが、病院について母を見た時はもう意識は無かった。
心臓病の持病はあったが、それまでピンピンしていただけに予期せぬ死であったのが悔やまれる。肺炎は結果であって、原因はわからないまま荼毘に付すしかなかった。
当時の父は認知症だったが、母の死を何となくは感じたらしく涙を流してはいたが、自分も含め他の人への認識はもう無いようだった。父は施設に入っていたが母の死から2年半後に脳梗塞で亡くなった。しかし、これも父は元々心臓系も丈夫で血栓など出来るような体質では無かったのに、おそらくワクチンを3回接種したが、その影響があったのではと思っている。認知症ゆえに父の死は母と違ってある程度覚悟はしていたが、コロナ禍真っ最中で生前から望んでいた盛大な葬儀をしてやれなかったことが悔やまれる。両親の死にはいろいろ複雑な思いだ。本来であれば、長男として福井に戻り両親と共に暮らせなかったことにはどういう思いだったのだろう。ただ普通に福井に戻って暮らしていたなら自分の人生は全く違ったものになっていただろうし、きっとこのような文章を書くことにもならなかっただろう。一緒に住む期待を裏切ってしまったことや、東京と福井という離れた場所に住み年に2度ほどしか会えなかったことには今だに心苦しいし、自由奔放に生きてきた事や兄弟家族共々みんな健やかにいることを感謝しながらも月に一度墓に近況報告に行っている。
・カミさんのこと
カミさんとは19歳の大学1年の夏休みに出会った。毎朝同じ電車で福井市内にバイトに行くときに出会った。同じ関西の大学に通っていたし、夏休みが終わり付き合うようになったが、カミさんは学生寮だったし、自分は大勢の同級生がいる下宿生活で、週に1度か2週に1度くらい会っていた。あくまでも自分はバイトに明け暮れる貧乏学生でどこが良かったのか知らないが下宿によく来てくれた。自分はしがない家具メーカー、カミさんは旭化成ホームズに入社し、その後ポートピア神戸博のコンパニオンとして働いたが、自分は東京に転勤になったので、しばらくは遠距離恋愛だった。カミさんも福井の出身だったので地元で見合いの話があるとかで、付き合っているんだから親に挨拶に来いということで、24歳の時にご両親に挨拶に行った。すると「で、いつ結納するのか、式はいつがいいか?」など畳み込まれるように話を押され、結局25歳で結婚することになってしまった。本来は30歳くらいまではいいかなぁくらいにのんびり考えていたが、後の祭りだ。母に叱られたが、もう後に引けない。それで26歳直前に式を挙げた。
新婚当初は横浜の日吉というところに小さなアパートを借りて住み始めた。40m2の2DK。家賃は8万円だった。当時自分の給料は手取り18万円。カツカツの新婚生活が始まった。
おまけに翌年に長女が、その翌年に次女が生まれた。カミさんは近所の歯医者にパートで働いたが、貧乏な生活は変わらなかった。その後隣駅の綱島に中古の家を買い、自分の事業もそれなりになって来て、世田谷の等々力、緑ヶ丘、そして上場後田園調布に家を建てた。サラリーマン時代や創業まもない頃など殆ど家庭を顧みなかったが、その間カミさんは子供達を育てあげ、家のことを全てやってくれた糟糠の妻と言っていいのだろう。一時期香港と日本を行ったり来たりの二重生活にもなったが、割と新しい水にも慣れやすいのかそれなりの街を楽しんでいた。今は2人きりの生活になったので広過ぎた田園調布の家を売り、港区に住むようになった。カミさんは特に何かをするわけではないが、もう少し友達を増やし、活動的になってもいいのではと思う。自分がサーフィンやトライアスロンであちこち出かけていることもあるのだが…。ま、いつまでも健康で怪我せず人生を楽しんで欲しいと思い、年に何度か一緒に旅に行くようにしている。
・娘のこと
二人の娘はあまりかまってやれなかったが、それなりに育ち、長女は10年前にフランス人と結婚し2人の男の子を産み、インターナショナルスクールに通わせ、国際的な教育を受けさせている。次女はまだシングルだが、特に慌てることもないし適当な時期にそれなりのパートナーが見つかればいいのではないかと思う。
二人とも英語は話せるので、特に孫たち含めコミュニケーションは問題なく、孫を入れて7人で旅行などを楽しんでいる。長女家族は子供の教育が目的で今年からパリに住むが何事も経験だからいろいろ楽しめばいいと思っている。
もし息子が産まれていたらきっと後継として考えていただろうが、娘なのであまり考えることもなく自由に働いたり、海外に住んだりしてきた。それこそ家を継ぐなどこちらも考えさせていないので、我々夫婦はいつか朽ちてゆくが、娘は娘達で自分達の生活を大事にし、幸せに生きていってほしいものだ。自分の幸せをどう作ってゆくかは自分たちなりに考えていくだろう。会話こそ多くはないが自分にとっては愛娘であることには変わらない。
・孫のこと
孫は男の子ということもあり、何かと親近感を感じる。自分のことを「じじ」と呼び、よく一緒にプールや海で水遊びをしている。もう日仏英と3ヶ国語を話すが、いずれはボーディングスクールに行きインターナショナルな友人が出来ればいいだろうし、グローバルに活躍する人になってくれたらと思う。じじとしては、自分が子供の頃体験できなかったことをたくさん体験させてやりたいと思っている。まぁ、ひ孫まで見れたら最高だけどなぁ。上の子はあまり競争が好きではなく、スポーツもほどほどだし、ゲームなどを見てもそれほど高得点を挙げるようには見えないが、集中力はとてもあると思う。絵を描かせたらじっくり時間をかけて綺麗に描きあげるし、部屋の整理整頓も普段から一糸乱れずのようなところがある。学校の成績は中ぐらいだが、その集中力にじじとしては魅力を感じているし、将来建築や芸術の方にでも進んでくれたらと思う。食べ物にも表れているが、素材をシンプルに生かしたものが好きで、あまりソースを使った料理や煮込んだりした料理は好きではない。逆に次男は何事も一番でなければ悔しいそうで、確かに頭の回転も速いし、頑張り屋だが、少し雑なところもある。がしかし、2人とも別なタイプで良かったし、よく喧嘩もしているが、根っこの部分は仲良くやっているので大人になってそれぞれ別な道に進むのか、それとも一つのことを二人で協力し合ってやるのかわからないが、いつまでも仲の良いコンビでいて欲しいなと思う。やはり孫は自分にとって未来を託したい子孫である。
・繋いでゆく
自分にとって今やっている会社は個人の資産管理会社であるが、数人の雇用者以外は我が親族(家族)で占めている。実はなんとなくゴッドファーザーのようなイタリアンマフィアの繋がりのようなイメージでこの会社を後世に残していけたらいいなと思っている。おかげで自分一人が使い切ることの出来ないくらいの資産に恵まれたので、これを更にマネージしながら後世に増やして残すようにして欲しいし、親族、家族を中心にその運営がスムーズに行われてゆくと良いと思っている。今は直系以外では弟や娘婿が入っているが、いずれは孫も入るだろうし、甥や姪、そしてその次の世代と直系を中心にファミリーで形成できたら面白い。日本にはもう財閥はなくなってしまったが、それこそロスチャイルド家のように名家になれないが、せっかくラテンの血が混じったのだから多少ヤンチャでも世間にそれなりの存在感が示せるようなファミリーであったら、それこそが自分の理想のファミリー像である。幸い孫たちにもそれなりの持ち株を与えているが、単純な利回り中心の安定投資でもいいし、新たに事業を起こしてチャレンジングな行動でもいいし、いずれじじを上回るような成果を上げてくれたら本望だ。よく子孫にお金は残さない方が良いと言うが、自分はそうは思わない。つまり金の使い方次第で、わがままで贅沢な使い方をさせたらそれこそ馬鹿になるが、やはり金がかかっても得られる体験や教育は惜しむことなく与えていきたいと思う。あの時間的余裕の有り余っていた学生時代を無駄に過ごしてしまったことは今でも反省に値する。あの時バイト代を貯めてバックパッカーをしながら世界を周っていたら間違いなく違う人生を歩んでいただろう。田舎に帰って親と暮らす責任を果たせなかった長男だったが、今やヨーロッパと日本とを結ぶ子孫に恵まれて、一緒に暮らすというよりも世界に拠点を作りながら家族の信頼で結ばれているファミリーを一歩ずつ築いてくれることを願いたい。それが亡き両親への恩返しのような気がするのである。
今やっていること
・金融、不動産投資
多少生々しい話になってしまうが、今現在行なっているビジネスの話をしよう。
自分は新たな山に登りつつあるわけではあるが、以前の山はフローのビジネスであったが、今度の山はストックビジネスの山である。これらの山は全く視点が違うビジネスだ。小売は日々が勝負だが、今度の仕事の大事なポイントは現社会をよく俯瞰的に見て未来を予測することだ。
詳しく書いてみよう。
Francfranc社を売却したことで資産管理会社にはそれなりのアセットを築くことができたが、その殆どは金融機関に一任勘定で運用を任せている。数年前から始めているが基本は中位のリスクとリターンを狙って全てドルに換金した上で株や債券などを中心に運用している。ドルは平均1ドル130円位で替えているので為替と運用益とでそれなりの含み益を生み出してくれている。また預けてある金額を担保にその6割相当は安い金利で借り入れできるので、その金額で不動産や更なる金融投資をしている。不動産は港区のマンションを中心に行なっているのが、ここ数年の港区不動産バブルの恩恵を受け、これも年利に直すと2桁以上の含み益をもたらしてくれている。また建築家を含めインテリアなどクリエイターの起用には気を使う。要は付加価値をいかに高められるかである。ちょっとしたセンスが売却額に影響する。商品も不動産も同じだ。他に同じ不動産ではあるがホテルへの投資も行なっており、昨今の建築費高騰でこれから先、新築物件を完成するまでの膨大なコストと時間などを考えると売り手優位での売却交渉が可能かと思っている。
金融については一任で任せておけば中長期で見てもそう大きな損を被ることはないだろうし、不動産も中国人に人気の港区や米国の優良物件などは利益を産んでくれるだろうと思う。但し、投資というのは過去の成功はそのまま未来に当てはまるとは限らないということである。本当にこの3年ほどはラッキーだったと思うが、為替もどう動くか、トランプさんの動向にもよるし、株もAIの関係など注目すべき業界がある。また不動産も物件数そのものが減ってきているので、より吟味した投資をしないといけないし、トレンドエリアも変わってくるので次の港区を見つけなければならない。また海外も東南アジアや中東などこれからも成長するマーケットとのウォッチングも欠かせない。そう思うと本当に幅広い情報を集め自分なりの分析と仮説での勝負になる。小売業をやっている時は売り上げから原価を引いて販管費を引いて利益が出るフローの商売。今は全く違うストックの商売を教えられている感じだ。しかし、それはそれで面白い。スピード感も必要だし、合議制などの悠長な判断をしなくても良い。直感で切ったはったが出来るダイナミズムがある。しかもうちの場合は安定した勘定任せの金融利回りと、適度な範囲内での不動産投資などであるからバランス良い投資形態になっていると思う。やはり放っておいても安定してまわっているという収益は一番の安心である。これから紹介するアートや車も不動産と同じで、風向きが悪くなってきたらさっさと止めるつもりだ。金融の方は年利7%が基準かと思う。7%であれば複利で10年でアセットは倍になる計算だ。このベースがあるからこそ他の投資があるわけで、情報の精度が上がれば上がるほど、またアイデアの湧き方次第では面白いことにもなりそうである。初めて飛び込んだストックのビジネスだが、自分にはこちらの方が合っているような気がする。
・アートへの投資
もうかれこれ20年近くアート業界を見ているが、実はアートの動きが世相を一番早く反映しているように思う。金融や不動産などよりも動きが敏感だ。特に日本のアート需要は冷え切っているように思うが、少し前まで元気があったスタートアップ企業の経営者などこぞってアートを買っていたが、ここのところパッと勢いが止まり、アートが売れない。そう言えば人気だったシェアオフィス等もかつての賑わいがなくなっている。世界と日本のアートは少し傾向が違うが、自分の場合はグローバルで通用するアーティストか、日本の実力のある若手作家に絞っている。アートをかじりたての頃は訳わからずに言われるままに買っていたことが多いが、最近は自分の意思で買うようになり、それなりのアートビジネス感覚も出てきたように思う。ある人が言っていたが、アートで儲けるコツは「売らないこと」らしいが、自分もそうだと思う。現にとある作品を15年ほど前に200万円ほどで買ったが、一時100万円ほどに下がり「ダメだぁ」と思って放っておいたが、最近気になってチェックしたら400万円ほどになっていた。売らなくて良かった。そしてやはりいろんなアート関係者の話を聞いてこれから先の情報を得ることである。あのアーティストがどこどこのギャラリーの所属になったとか、世界の冠たるギャラリーが何に注目しているとかである。また「あのアーティスト90歳過ぎだからもうすぐ死ぬかも」という情報だけで上がる場合もある。そして不動の有名アーティストは一時的な上下はあっても中長期で見れば確実に上がってゆく。ここ20年ほどいろんなアートフェアに出かけているが「あの時買っていれば…」というタラレバは枚挙に遑がない。さっきも述べたが、今日本のアート業界は低迷している。その証拠にアートオークションは殆どが最低落札価格ぐらいで落とされている。つまり今こそが買い時なのだ。それでも各アーティストを見極めなければいけないが、中には物凄いお買い得品があるのも確かだ。我が社のここ数年のアート投資は平均2倍くらいの価値にはなっているのではないだろうか。あまり売ることはしないが、オークションの落札結果や世界での価格状況を見ていればやはり投資商品としてはとても魅力あるものである。
車の投資
・車の投資は大きく分けてヴィンテージかーと新車に分かれるが、ヴィンテージカーはなんでも良いというものではない。まずは限定数しか生産されていないもの。そしてメンテナンス含めきちんと整備されていることが条件だ。数十年前の車だから当然劣化はするが、それでも最近流行りのレストモッドで完璧なまでにモディファイされた車は何倍にもなる可能性がある。特にアメリカのペブルビーチやイギリスなどで開催されるオークションでの落札価格が標準となる可能性が高く、今は少し足踏み状態だが、必ず3年と待たずに上がる機会が訪れてくる。とにかく世界にこれだけしかないというものは凸凹はあるが確実に上がってゆくのである。
新車の方はなんだかんだ言ってもフェラーリ1択である。フェラーリはその辺のディーラーに行って「フェラーリ下さい」と言っても新車はまず売ってもらえない。そして仮に中古を含め買えたとしても、フェラーリ遍歴を作り上げてゆかないと新車が出ても当たらないのである。そして殆どの生産台数は限定されているので、中古になってもあまり下がらない。
そして顧客管理が世界中完璧に管理されているので、誰が何を買って、何をオーダー中なのかがわかっているのである。
またフェラーリは系統立てて新車を開発するので、大きくは12気筒エンジン、8気筒ミッドシップ、8気筒フロントエンジン、スペチアーレ、SUVなどに別れているのでうまく系統立てて買い集めていかないと新車の割り当てが来ないようになっているのである。特にスペチアーレと呼ばれる限定車は今まで何を買い集めて来たかで、イタリア本社がこの人にと指名して買う権利をもらえるのである。しかし、そのスペチアーレという限定車が1台新車で手に入れば、それまでの投資が殆ど回収できるくらいの値段に上がってゆくのである。世界のトップコレクターは約500人ほどいるらしいが、トップになるまでのコレクションも凄いだろうが、決して損はしない確固たるフェラーリ投資家の完成形なのである。昨年はF80という特別なスペチアーレが登場したが世界で300台、そして1台6億円であったが、リセールすれば10億円は下らないであろう。但し売ったことが本社に知られてしまうので、トップからは陥落することにはなるのだが…。
・HOTEL
投資の対象の1部ではあるが、ホテルは自分にとっては特別な思いがある。それはホテルというのは単なる宿泊施設というのではなく、文化の集合体であると思っているからだ。特に長年インテリアを商売にしてきたので、いろんなホテルに泊まる際にも気になるし、新しくできたホテルには積極的に泊まるようにしてきた。おそらくその辺のホテルマンよりたくさんのホテルを知っているとは思うが、インテリア以外にも小売業を長くやっていたのでホスピタリティも気になる。あとは飲食やアート、SPAやジムなどだ。試しに千葉にBOTANICAL POOL CLUBというホテルに投資してみたが、練習にはちょうど良い規模だった。
現在は東京から南に300K離れた八丈島に計画をしている。約40室ほどのホテルだが、羽田からANAで約50分ほどの亜熱帯に近いような気候の島なのに良いホテルが1軒もない。ここは東京都かと思う位ネイチャー感溢れる島で大太平洋を眼下に見渡せる火山島である。海沿いの土地に計画しているが全ての部屋がオーシャンフロントで八丈小島に沈む夕陽を見られるようになっている。自分がつくるわけであるから当然クリエイティブにはこだわっている。建築、インテリア、アート、食事、SPA、アメニティ、ショップなどデザインが関わる部分は当然自分の気に入ったものにしたいし、ホスピタリティも小売業並みのレベルで勝負したい。全ては掛け算だ。最高得点のホテルを生み出す自信は既にあると思っている。実際にオープンまでは3年ほどはかかるが楽しみなライフワークである。
・家、別荘
とかくインテリアの商売をしてきたので、家や建築物には興味がある。過去に自宅を2回、他にサービスアパートを1軒、別荘を1軒つくってきたがやはり新築で建物を1からつくるのは面白い。そういう意味ではかつて田園調布に隈研吾さんの設計でつくった家は思い出に残る家だった。ほぼ希望通りの延床面積200坪の家ができたが、売却の時も隈さんの設計ということで売りやすかった。やはりそれなりの建築家に頼むのも付加価値の一つだと思う。田園調布以来、港区のマンションに住むようになったが、未だもって終の住処ではないのでどうしようかと思っているところだ。というのも建築コストが上がり、またゼネコンの人手不足もあり、なかなか受注してくれないなどの問題で、もし今から家づくりを1から始めてもおそらく完成は数年先、下手をすれば5年先となってしまうだろう。そんな中での選択肢は低層のテラス付き中古マンションをリノベーションして住む計画だ。これなら1年から1年半で可能になるのではと思っている。そろそろ探し始めようかと思っている次第だが、なかなか物件数が少ない昨今だけにいつになるやらという感じではある。カミさんと2人だけなので基本的には2LDKでいいが、2はそれぞれ別部屋で寝る場所、書斎の場所、ワードローヴ、バス、トイレが無くてはならないのでそれぞれ25畳ほど必要かと思う(自分は服などが少ないのでカミさんより狭くて構わないが…)。あとはダイニングの横に屋根付きのテラスがあり、家の中でも外でも天気次第で食べる場所を変えられるのが理想だ。もちろんテラスには煉瓦造りのBBQスペースは欲しい。あまり来客が多いわけでもないのでリビングはそれほど大きくなくても構わない。そんな間取りの家はないのでどちらにしてもフルリノベーションしないと想いは叶わないのだろう。
別荘は日常の生活から少し離れることで違う雰囲気を味わえる家だが、なかなか日本人の方で上手に使われているのは少ないように思う。実は自分も鎌倉に建てたはいいが、ちょっと東京と近すぎて、東京が雨なら鎌倉も雨だし、波が良いから行こうと思うと激混みのサーファー連中がいるしで、だんだん行かなくなり遂に売却してしまった。その点、ハワイのコンドミニアムはまずまず満足している。ラナイが無いのが少し不満だが、場所も良いし建物の質感、そして間取りも良いので家族だけでなく知人に借したりもしているが、評判が良い。そして今年から娘達家族がパリに住むこともあり、いっそのこと夏は一緒に南仏で過ごそうと南仏の海辺に家を買った。日本の夏が暑かったり、台風だったりで過ごしにくくなってきたのもあるし、南仏を拠点にヨーロッパ各地に足を伸ばしても良いかと思ってのことであるが、投資としても良い条件で買えたので良かったと思っている。スペイン風の外観で自分の好みではないが、その土地には溶け込んでいる建物だし、内装を少し変えれば良い雰囲気になるのではと思い、この夏を楽しみにしている。できればこれからは毎年夏の約2ヶ月をそこで暮らそうと思っているので、早くその土地に慣れ親しんでいきたいと思っている。毎夏カミさんと地中海に出かけていたので、これからは地に足をつけてバカンスを楽しみたいと思っている。部屋数もまぁまぁ多いので、これから先、いずれ孫達のガールフレンドが来たり、自分の友人を呼んだり、何かとみんなが集まれる拠点になれば良いなと思っている。その辺をうろちょろする小さなボートは買おうと思っているが、近隣の国へは目の前の港からチャーターボートがいくらでもあるので、島々に行くのも楽しいだろうと思う。
なかなか日本人はバカンスという感覚はないがそろそろそういう習慣ができても良いのにと思うと同時に、自分がそういう暮らし方をすることで少しでも拡められたら良いなと思うのである。
・投資業
金融、不動産、アート、車が自分の行なっている投資対象ではあるが、仮想通貨やFXなど無知なものには手を出さないのが賢明だろう。また株の個別銘柄もデイトレーダーではないので毎日見るなど到底できない。今の形態(ポートフォリオ)が一番自分に合っているのではと思う。しかし、根本に戻って「何故今まで以上にお金を稼ごうと思うのですか」と聞かれることがある。最初はどうしようかなぁくらいに考えていたのだが、そのうち「これはお金を稼ぐのではない。自分が様々な体験や経験を積んできた証として、またその経験を踏まえてアセットをどこまで増やせるかを試してみたい。」と思うようになってきたのである。つまり自分の今まで生きてきた価値を純粋にお金という尺度で計ってみたいと思うようになってきたのである。もうお金を使うことには限界がある。プライベートジェットを買えばそれなりの金額を使うが、それとて資産であるからお金が飛行機に変わるだけである。毎日A級グルメも飽きる、どでかい邸宅も要らない。さして欲しいものもない。急いでなければ電車や都バスにも乗る、そんな68歳であるから日々大金がいる訳ではないしあまりそういうところに興味も薄れてきた。が、アセットを増やすというのは経験や勘や、そしてデータを見て未来を予測することであるが、そちらには興味がある。そんな経緯から投資業に勤しもうとなったわけである。おそらくであるが子や孫には大金を残さなくても良いだろう。残さなくても不動産とかはあるわけである。
あと10年ほどの間の投資で今のアセットを約3倍にしたいと考えている。そしてきっとどこかに増えた分寄付をするだろう。自分のプライベートカンパニーとはいえ、そもそも0からスタートし、様々な社会の資源をお預かりしてここまできたものだ。税金で取られて国の好き勝手に使われるのは嫌だが、自分が好きなように寄付をして自分の思うような使い方をしてもらいたい。おそらく日本の文化振興の為に寄付することになるだろう。金融で資産を増やすことはある程度のプロもいるのでお任せしといたほうが安心だが、こと不動産やアートなどは自分の考え方によって大きく成果が変わる。不動産はやはり立地もあるし、付加価値をいかにつけるかによっても変わる。今まで港区中心で投資したのはとても大きな成果に繋がったし、デザインを施しそれなりのリノベーションをすることも価値が上がることに繋がる。しかし、もう頭打ちだろう。これからの不動産投資は海外かもしれないと考えてハワイ、フランス、オーストラリアなどのプライムロケーションへ投資をし始めた。
またアートは非常に楽しい投資だ。情報収集もさることながら、自分の趣味も入るからややこしい。つまり好みもあるし、アートのトレンドもあるし、マーケット環境もある。それを見極めながら趣味と実益を叶えていかなければならないが、王道は「売らないこと」である。今まで焦って売ったものは損はしていないが、後になって早すぎたものばかりだ。20万で買ったアートが350万で売れて喜んでいたら、今や数千万円になったらしいというものもある。自分の場合最近はユニークしか買わないようにしているが世界に一つしかないということはある程度自分がコントロールできるということである。但し悩ましいことがある。金融は無機的に考えれば済むことだが、アートはのめり込めばのめり込むほど欲しいアートが増えることである。そしてなかなか売り時を迎えられないものだ。つまり投資としては一番難しいものだと思う。そしてアートフェアなどに行き常に見ていないと遅れてしまう。アートの投資家として生きるにはたくさんのアートを見ることである。これに尽きるような気がする。
最後に伝えたいこと
とうとう最終章になってしまった。自分の歴史や考え方などをつらつら述べてきたが、以前から思うのは日本の暮らしの貧しさだ。実際に昭和の高度成長期やバブルがあって人々の暮らしは激変したが、その後平成、令和と続いてもバブル崩壊以来暮らしの質が上がっている感じがしない。上がるどころかデフレが続いたおかげで日本の暮らしは質的に貧しくなってしまった。安売りの店が増え家の中にあるものは低質なものと便利グッズのようなものばかりが増えた。またコンビニが増え便利になり、スマホが普及しいろいろできるようになったけど、人々は幸せになったのだろうか?そして一人当たりのGDPは世界で30番目にまで落ちてしまい、今やイタリアにも韓国にも負けている。つまり、安さも便利さも豊かさを生み出していないのである。イタリアにコンビニは無いし、野菜とかも市場で買っている。でもみんな幸せそうだ。日本人はなんで間違った方向に進んでしまったのだろう。
こんなに勤勉で真面目な国民なのに、小中高生の自殺者数は過去最高だ。匿名性をいいことにネットでは炎上騒ぎばかり。表向き良い人そうに見えて、裏側では卑怯な行動をとる。なんか貧しくも、さもしい国民になってしまった。政治の世界にしてもリーダーが現れず、池田勇人の所得倍増計画や田中角栄の日本列島改造論を掲げたようなリーダーシップを持った人がいないし、かつての昭和の頃のように日々明るい未来が訪れるような期待感も全く感じない世の中になってしまった。みんな我儘に自分の都合で生きている感じだ。
・QOL
Quality Of Lifeという言葉があるが、実は江戸時代の方が現在より豊かだったような気がする。そもそも日本人は「倹約を美」とする民族で良いものを長く使うような暮らしをしていた。また平安時代から江戸時代までは天皇や殿様が文化を重んじ、特に豊臣秀吉が千利休を重宝するようになってからはお茶の世界から建築、絵画、生花などお茶以外の文化が大きく花開いたのである。ところが明治維新、第二次世界大戦により日本の文化はどんどん薄れていってしまった。もちろん現代において漫画や和食なども日本文化として認められているが、江戸までの文化に比べたら突然分断されてしまった感がある。そして戦後から始まった西洋文化。一般家庭もちゃぶ台からダイニングテーブルに変わって和洋折衷の日本独特の文化が育まれるのだが、自分的には何故か昭和で育むべき文化が止まってしまった気がする。良くも悪くもバブルはある種のターニングポイントになったような気がする。株価は38000円を付け、弾けて以降昨年までその値を越えることはなかった。また長年給与は上がらず、その間に物価は上がり、スマホが出来、可処分生活費はどんどん少なくなり生活の質がどんどん落ちているのである。しかし、自分は考え方ではないかと思う。そんなにコーヒー好きだったかと思うくらい日本人もスタバに出向く人が多いが。コーヒーを飲むのも文化かもしれないが、仮に毎日スタバで500円のコーヒーを飲むとしたら20年で約300万円だ。自分ならローンを組んででも300万の家具を買う。実際にいい家具を使用している人ならわかると思うが、何に対しても大事にしようという気持ちが湧いてくる。無垢材や大理石のテーブルにIKEAやニトリで買った無味な食器を使いたいとは思わないはずだ。〇〇焼きの食器に食材の彩りを楽しもうという気になるものだ。例えほうれん草のお浸しでも洒落た小鉢に入れたくなる。同じものを同じ時間で食べるとしても、その気持ちの満足度は違うはずだ。その満足度こそが暮らしの質の良さなのだ。食事や、くつろぎや、お風呂や、寝ること。何気ない日常をいかに豊かなものにするか。つい忙しくなり過ぎた日本人はセカセカと忙しくしながらも本質を忘れて日常の質を落としている。と同時に心まで世知辛く、殺伐としているのではないだろうか?SNSでどこそこのレストランに行った、何を買ったなどを挙げ、他人にマウントしながら生きていることにQOLは感じない。自分もSNSをやめてしまったが、発信するならもっと何が良いのか、あるいは自分の価値観は何なのかを添えて発信したい。上っつらだけでマウントをとりに行っても仕方がないような気がする。自分も社長を引退するまでは本当に忙しかったので日常に気を止める時間が少なかった。今は時間がたっぷりある。料理を作ることが好きだが、もっと手間をかけたいと思う。「本だし」では無くきちんと昆布とカツオで出汁をとりたい。良い素材に手間ひまかけて料理を作りたい。京都の緒方さんに行くと「6時間炊いた海老芋です」「4時間低温で揚げた人参です」という料理が出てくる。6時間炊いた海老芋はほんの少しも形崩れしていない。そこまでは出来ないにしても、大根の角を取るとか、椎茸に切り飾りをするとかのことぐらいはしたい。きちんととった出汁で大根をコトコト煮ればそれだけで美味しいはずだ。シンプルな料理だけど、手間ひまが味を変えるだけでなく、作っている時間も食べている時間も豊かな時間に変わってゆくはずだ。これから先はそういうことを大事にして生活を楽しみたいと思っている。「暮らしを丁寧に」を忘れているからこそ、日本のGDPが落ちている気がしてならないのだ。
・日本のこと
自分が堂々と「日本人です」と誇りを持って言えるのは世界のどこの国よりも歴史と文化がある国だからだ。1000年以上の文化を育み、神話のような頃から天皇制が続き、文化が時代とともに醸成されてきた国だからだ。例えば自分の故郷福井にしても伝統工芸の盛んなところだが全て1000年近くの歴史がある。和紙に至っては1500年だ。そういうところで生まれた事は一つの誇りであるし、今だにそういう仕事に携わっている人の話を聞くのはある種お坊さんの説法を聞いているみたいに非常に心地良い。現代の日本の諸問題はいろいろあるにしろ、こういう国は他にないのではと思う。平城、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸と時代を通して培ってきた日本文化がまだ日本各地にたくさんあるし、現代まで繋いでくれている大勢の人たちもいる。素晴らしい文化に満ち溢れた国なのに、実は自分の反省も含めてなのだが、企業の姿勢がどうかと思う時がある。この脱却できないデフレの責任は企業にあると思う。とかくバブルがはじけて以降「安売り」「巨大化」「チェーン店」という業種、業態に日本中がやられたように思う。地方はどこに行っても同じようなロードサイド店のオンパレード、そして看板規制のない行政のもと下品な看板ばかり。また全国何万店もあるコンビニ。確かに便利かもしれない、弁当も惣菜もあり、若者や時間のない人はコンビニ中心の食生活だ。日本人は便利と引き換えに何かを忘れてしまったように思う。コンビニの味が本物だと勘違いしてもいる。おでんだって、鯖の味噌煮だって、おにぎりだって、もっともっと美味いものなんだ。あれは本物に似せた味なのだ。もちろん自由競争だから企業がどんな動きをしようが問題ないのかもしれないが、本来なら政治がもっと経済に入り込み、国全体の付加価値、つまり豊かさを上げる工夫をして欲しかった。失われた30年は決して株価だけの話ではなく、生活の質まで失ってしまったように思う。巨大流通業になった企業に責任はないのか?自分がいた家具インテリア業界も同じだ。かつては3兆円のマーケットがあったのに、輸入品や安売りなどで結局巨大企業は現れたが、マーケットは半分に縮小してしまった。ファッションも同じようなものだ。本当に残念な時代になってしまった。
もちろん、だからと言って自分がこれから何かができるわけではない。しかし、せめて自分は日本人だというアイデンティティを持ちながら生きてゆきたい。そして何らかの日本の良さを更に発掘したいし、それをグローバル化して発信してゆきたい。日本には誇れるものが沢山あるが、現代という世の中と照らし合わせた時に少し変えた方が良いものもある。良さは良さでよいのだが、そのままでは世界には通用しない。従って廃れてゆくというものもあるし、それは多少世界のニーズにアレンジしなくてはいけないものもある。例えば韓国のチマチョゴリは美しい衣類だが、あのままでは世界に広がらない。しかし、あの色の豊かさ、布の肌触り、それは良しと出来る。ではあの布と色を使って現代でも使えるものができないかと考えるべきである。それは日本の着物にもあてはまる。着物の需要はどんどん減ってゆくが、紬であれ、西陣であれ、友禅であれ、または絞りなど沢山の織りや技法があるが、もしエルメスがデザインを少し変えスカーフに採用したら世界中に売れるはずだ。そういう翻訳作業をすれば日本の文化は世界を駆け巡ることができるはずだ。そして世界の中でその可能性を一番秘めている国なのだ。そんな国なのにGDPもさることながら、民度や品度が落ちてゆくのが本当に嘆かわしい。もっと高貴で、上品で、慎ましいが豊かな国であったはずだ。残りの人生、日本人として誇りを持って歩みたい。そして何らかの形で後世に繋げるような活動がしたいと思っている。
・生き様を作ろう
白州次郎という人を知っているだろうか?戦後GHQのマッカーサーと正々堂々と対峙した男だが、政治家に近い実業家でもあった。彼が生きてきた証は武相荘という彼が戦中に住んでいた町田市にある建物の中に保管展示されているが、彼には彼なりの生き様というものがあった。もちろんそれはマッカーサーに物おじせず堂々と会話してきたこともあるが、外国人に勝るとも劣らないセンスと度胸の良さは粋な生き様となっていった。死ぬ時は「葬式無用 戒名不用」と生前から述べていた通りになり、83歳で亡くなるが最後までポルシェの911に乗り続けたのもさすがである。奥様の正子さんと共に昭和の激動期を爽やかに粋に生きた夫婦でもあった。
また自分の中でも一番の首相といえば田中角栄になるが政治家や役人だけではなく、広く国民までも心を掌握したのは彼の生き様からくるものではなかろうか。1972年に首相になり「日本列島改造論」を掲げ、日本を世界に冠たる経済大国にした高度成長期最後の総理大臣であった。若かりし自分も角栄の「ま、そのー」という言い出しの言葉は印象に残っており、過去の歴代首相の中ではズバ抜けて印象深い総理大臣であった。たくさんの彼のエピソードはあるが、新潟の田舎町から出てきて総理になるまでの道のりとその演説の力強さに国民は惹かれていった。思うにどんな人でさえ、その人なりの生き様というものはあるが、ただ生きてきただけの人とは違い、意志を持って様を作ってきた人にはそれなりの思想が見えるのである。平々凡々と生きるのではなく、思想をもって生きることでその人なりの生き様ができてくるのである。
人との交わり方、お金の使い方、趣味嗜好、性格などその在り方は様々だが、人から見て結果としてそれなりの存在感や共感を得ることのできる人になっていればいいと思う。しかし、それを求めるような生き方ではそのようにならない。人に認められたいとか、共感を得たいという欲求が出れば出るほど人は軽く見られてしまう。自分は自分と割り切り、自分の意思に従って己の生き方を追求している人こそが生き様として認められるのではなかろうか。男として生まれた以上は天涯孤独でも構わず生きていくくらいの度量を持ち合わせなければその域には達せられないのだろう。そう、人は人、自分は自分。それでいいじゃないか。
・無駄なことは何一つない
喜怒哀楽という言葉があるが、喜びや楽しさはそれで良いことだと思っていればいいのだろう。しかし、怒りや、哀しみは決してダメなことではないと思っている。長年生きていれば嫌というほど腹の立つことや、哀しいことはあるものだ。むしろそちらの方が多いくらいだ。しかしである、自分の経験で言えば苦しい、悔しい、悲しい時にこそ成長や学ぶことがあるのは確かだ。よくスタッフに言っていた事がある。Francfrancの人気職種といえば商品開発やバイヤーの仕事だが、海外出張も多いし、商品の仕入れという売買においては優位に立てる職種だ。またPRなども華やかな職種として人気だ。しかし、新卒で入社していきなりそういう部署に配属されることはなく、まずは店頭に立ち販売をしなければならない。でもそういう職種に就きたいと思っている人には「夢を持つのは素敵なことだし、目標を持つことも素晴らしい。しかし、一番早くそのゴールに近づくには目の前のことを一生懸命やることだ。」と何度も伝えていた。
つまり、そういう職種は現場(お客様)の感覚がとても大切だし、その感覚を養うには店頭で慣れるのが一番だ。そしてそういう現場での活躍で良い評価を得る子は店長にも認められ、エリアマネージャーなどにも知れ渡ってゆく。そして希望の職種で増員や欠員があれば、そういう評判の良い子が推されてゆくのだ。あと、こういうこともある。優秀なスタッフほど私が会う機会が多い。月に何度か店舗訪問をするが、働きの良い子は目に留まるのだ。例えば、店内を歩いている途中にお客様に声をかけたり、売り場の乱れを直したりと何かとよく気づく子がいる。それで店長に「あの子はよく気がきく子に見えるけど何ていう子?」と聞くと「〇〇さんはお客様からとても評判が良くて…」などと自然にこちらにも印象付けられてゆくものだ。現場は大変だが、生き生きと働いている姿は必ず人に認められてゆく。
また自分の経験で言えば、サラリーマン時代に勤めていた家具メーカーは同族会社であったが、ゆえにちょっとした同族の不愉快さを垣間見てきた。同族だから優遇されるということがままあった。その時は企業のためなのか、家族のためなのかと疑問を抱くことがあったが、起業してからはそういう経営を見てきたからこそ自分の会社は従業員に疑問を抱かせるようなことはしないでおこうという反面教師になった。また、これはわかりやすい例だが、トライアスロンで苦しい練習をしてきた者にしか良い結果は生まれない。ラクして良い結果は出ないし、仮にまぐれで出たとしても、その喜びは最大のものではないはずだ。
人付き合いもそうだ。世の中には気の合わない人、嫌いな人、危ない人など好めない人はたくさんいるが、一つは自分がそうならないようにしようという鏡になってくれる。そしてもう一つは自分の中にアラームをつくってくれる。そう、ウルトラマンの胸にある時間のアラームのようにピピッと「この人と早く離れなさい」というアラームだ。もちろんそんな人達と知り合わないのが一番だが、長い人生仕方がない。必ずそういう人には出会うものだ。しかし、そういうことを学ばせてもらえるならそれも悔やむには足らないことではないかと思う。
哀しいことの最大のものは身内の死ではなかろうか。50代くらいからだろうか、死んでもいない両親がいつか死ぬということを思うだけで心が重かった。ましてや世の中には子を失う人もいたりするが、どれほどの哀しみに耐えなければいけないのだろうと思う。しかし、実際に母を失い、父を失ってみるとその時は涙するが、徐々に日が経つとともに気持ちも落ち着き、両親に対し感謝という気持ちがどんどん大きくなると同時に、見えないがいつも近くにいてくれているような気持ちになり、あまり距離感を感じなくなる。また自分がそう長くないうちにそっちの世界に行けるということも距離感を縮めてくれているのかもしれない。自分かカミさんかどちらが先に逝くのかはわからないが、仮にカミさんが先だったとしても哀しさも想像できるし、その後の気の落ち着き方も何となくわかる。いつか来るという事実だけがとても嫌なことだし、人生最大の哀しみではあるのだろうけど、おそらく感謝という気持ちで救われてゆくのだろう。つまり、人生最大の哀しみでさえ自分に何か別なものを与えてくれるのである。両親の死は自分に感謝という気持ちを最大にしてくれているのだ。まぁ、自分がカミさんより先であったらカミさんには大義だから適当に済ませてくれれば良いとは思っているのだが…。
人に注意されたり、叱られたりすれば腹がたつ、しかし、落ち着いて考えてみれば反省というものが芽生えてくる。そうやって考えてみれば、壁は押せば跳ね返ってくる、水滴が落ちれば波紋が拡がる、何が起きても無駄なものは何もないのかもしれない。
・もっと幸せに
今一度問うてみよう「幸せって何だろう」。改めて考えてみると不思議なものだ。
ある人は「1億円あったら幸せになれるの」にと思う。しかし、別なある人は100億円持っていても幸せを見つけられなくて訳もわからずに追い求め続けている。「結婚できたらきっと幸せになれるのに」と思う人がいる。「こんな女、もううんざりだ、早く離婚したい」と思う人もいる。どんな状況にいても人は心の持ちようでその時々を「幸せだ」「不幸だ」と言っている。それから例えば荒野を1週間歩き続けたのち、暖かい紅茶と共に食べる一粒のチョコレートと、皿数の多いフランス料理を散々食べた後の大きなチョコレートケーキ。どちらが美味しいのだろう。そう考えると、幸せはその人なりの尺度での心の在り方でしかないのだろう。その尺度には地位も名誉も金銭も友達の数も一切その大きさや数量ではないのだ。今機内で書いているが10万円の洋食フルコースより、梅のおにぎりの方が食べたい。つまり自分が心から満足できる状態が幸せであり、それは人によって違うし、その時々によって違うはずだ。であればだ、人を羨んでも何の意味もないのではないだろうか。SNSでいくらイイネを押そうが、その数があろうが、その人は幸せなのだろうか?むしろ本当に幸せな人はそれを人にひけびらかす事は無いように思うし、本当の幸せは噛み締めて味わうものであり決して自慢したいことではないはずだ。自分の尺度に合う気持ちの良い状態が幸せなのだ。孫と会っていると楽しい。長く会っていなくて久々に会うと成長しているので驚く。しかしよく言ったものだ「孫は来て嬉しい、帰って嬉しい」と。来てはしゃいでいる子供達を見ていると目を細めてしまうが、長くいるとこちらが疲れてしまう。その様子を上手く表したものだが言い得て妙だと感心する。
不思議なことがあるのだが、気が急いたり、モヤモヤする時って何故かクローゼットの中も乱れていませんか?断捨離で有名な山下ひでこさんが断捨離は単なる「整理整頓片付けではなく、心につながっている」というような事をおっしゃっていたが、衣類や靴など整理しなきゃと思いながらもできていない時、なんか心も乱れているのである。Tシャツ整理してある程度捨てなきゃと思いながらも、洗濯物をまたその中に閉まっている。古いものと洗濯したものが一緒な引き出しに詰まってゆく。そういうことが少しづつ気持ち悪くなってゆくのだ。よく経営の話で自分は「勝つ強さより負けない強さが大事だ」と話しているが、気持ちの持ちようもそういうものではないだろうか。クローゼットがぎゅうぎゅうなのに新しい洋服を買ってウキウキしている幸せよりも、クローゼットをすっきりしてからお気に入りの洋服を買った時の方が何倍も嬉しいはずだ。そして買った服もクローゼットの中で光っているはずで、ぎゅうぎゅうの中の1枚より、選び抜かれた中の1枚の方が良い服に見える。これは心のクローゼットにも当てはまることなのではと思う。あれもこれもとアクセクしている時に大事なものが見えなかったり、すっ飛ばしてしまったりする。社長時代にもそういう時があったが、忙しい時はやはり全部書き出して1つ1つクリアにしていくとだんだん先が見えてくる。
そうやって考えてみると幸せになるにはいろんな工夫やコツが要るような気がする。つまり幸せが偶然に降って訪れるものではなく、心の準備や隙間(空間)が必要なのではないだろうか。クローゼットも心もパンパンにしていては幸せの入る隙間がない、かろうじて入ったとしても見つけられなかったり、気付かなかったりなのではないだろうか。むしろ人はそこに無理に新たなものをぎゅうぎゅう押し込んで、はみ出てしまったものにも気付かずに…。きっと自分もそんな風に次から次へと押し込んで生きてきたのだと思う。そして今は仕事もたいしてしなくなり、時間もあり、隙間ができているところだ。だからそこにあるものを噛み締めながら味わえるようになってきたのだと思う。ようやく目の前にある幸せに気付けるようになってきたのだ。お腹も同じだね。満腹では何も美味しくないのである。適度な空腹感があるから美味しいのだ。幸せも一緒。常に一杯一杯にならないようにする心の準備をもとう。「心にゆとりを」というacみたいな言葉があるが、それこそが幸せを感じることができる最大のコツなのだろう。よく恋は盲目というが、盲目になって余裕のなくなった方が崩れてゆく。余裕がなくなり相手の気持ちを汲めずにすれ違ってゆくケースだ。ゆとりを持って相手の素敵なところを認め、きちんと受け止めてあげることで恋愛は成就してゆくものだ。
みんな幸せを願っている。もっともっと幸せにと思っている。だからこそ、一つ一つ噛み締めながら幸せを味わってゆきましょう。
完
あとがき
昭和から令和まで生きてきたが、社会の構造も変化し、且つ価値観もずいぶん変わってきたなと思う。そして、それとともに幸せの価値観も変わってきたのだろう。この本では自分の歴史とともに自分の価値観も変化し、今をどう生きようとしているかを書いてきた。いずれ出版しようと思い原稿を昨年書き上げたのだが、特に出版しなくても(印税が欲しいわけではないので)発表できる場さえあればいいだろうと思い、HPでの発表にした(これも時代なのかなと思う)。
来年70歳を迎えるが、普通にいけば残りの人生は約15年ほどだろう。本編にも書いたが自分の今の体力は50代の時に培ったものだが、実は来年のテーマは「最強の70歳」だ。しかし、今すぐになれるわけでもなく、昨年からのアキレス腱炎をまずは治さなくてはいけないが、PRP治療では完治しなかったので残るは幹細胞治療に期待している。来春にサンディエゴであるIRONMAN70.3に出て7時間を切るのがまずは目標だ。そしてもう一つ、マスターズ走り高跳び70歳の日本記録へのチャレンジだ。その為もあり東海道を歩き、アキレス腱の具合を確かめたところだ。これでそろそろ走り出し、秋頃には21Kを走れるようにしたい。つまり自分にとっての70歳はある意味、小山なのだ。すぐに練習を開始し、すぐに結果を出せるほど自分の身体はもう若くはない。じっくり、ゆっくり少しずつ調子を見ながら上げてゆき、故障しないようにハラハラしながら身体を仕上げて行く感じだろう。それをしたからといって長生きできるわけではないし、下手をすればまたどこか故障する可能性もある。しかし、昔と違って走れるというだけで幸せなのだ。レースのスタートに立てるというだけで幸せなのだ。高跳びもそうだ、高校以来50年ぶりに跳んでみたら130cmは楽に跳べた。70歳の日本記録は146cmだ。少し頑張ればいけるかもしれない。
そんなことを考えているとウキウキしてくるし、どうそれを計画していこうかと楽しくなってくる。実は、それが自分にとってのテストステロンなのだ。
他の70歳の人は何が楽しいんだろう?何が幸せなんだろう?自分には想像できないが、それぞれの残された人生を楽しんで生きてほしいと思う。70歳を過ぎても下り坂じゃないんだ。また緩やかな坂を登ったっていいんだ。そして道端にはタンポポやスミレが咲いているかもしれない。その美しさを見逃さないようにしながら歩いてゆこう。幸せも豊かさもどこかにあるのではない。自分の心の中にあるものだ。
読んでいただいた皆さんがこれからも楽しく元気に過ごされることを祈ってペンを置きます。ありがとうございました。
髙島郁夫