自分の名前と生き方

学生の頃まで自分の名前が嫌いだった。何故ならほぼ全ての人が「郁夫」を「いくお」と呼ぶからである。新しい先生に点呼を取られる時も、卒業証書を読まれる時もいつも「いくお」だった。その度に何故オヤジはこんな名前をつけたんだろうと少し恨んでいたものだ、本当は「ふみお」なのに。しかし、大人になり、文字の意味を知るようになると、あながち捨てたもんじゃない意味があり、むしろオヤジはそういう人になって欲しかったのだろうかと親の気持ちを察するようになった。そしてその意味はとても自分の人生を左右しているんじゃないだろうかと思うようになり、どこか精神的な支えにもなっているような気がするのである。まず「郁」と言う文字であるが、高貴、香りが高い・芳しい、文化・教養が豊かである、才能や徳が内側から満ちている、外に誇示するのではなく、内面から滲み出る豊かさ・知性・品格というような意味を持つらしい。そして「夫」は一人前の大人、責任を担う存在、人を支え、導く者、社会的に成熟した人格などの意味があり、二文字を合わせると「内面の豊かさと香り高い品格を備えた成熟した人物」ということになるらしい。そんな意味を知るにつけ、そんな生き方をしてきたのかと恥ずかしい思いだが、オヤジはそういう思いを持って自分の名前をつけてくれたのかと思うと、今更ながらにありがたく思うと共に、名前に恥じない生き方をしなくてはとも思うのである。友人の藤井郁弥くんも同じように「ふみ」と呼ぶが、彼も音楽やアーティストとしての才能を発揮している点で、名前と文化的な要素が重なり合っている気がする。
あと自分の性である「高島」であるが本当は旧の文字で「髙島」と書く。「高」に直してしまえばいいのだが自分的には「髙」の方が好きなのでサインする時は必ず旧文字を使うようにしている。そしてその旧文字を使用し「髙島郁夫」の四文字での意味を探ると「群れず、誇らず、だが退かない。高い視座に立ち、内面の豊かさを言葉と選択で遺す人」ということらしい。いやぁ、恐れ多いような立派過ぎる意味の名前ではないか。しかし、いつ頃からか「群れる」というのは好きではなくなった。かつてのFrancfrancも誰にも相談せず、人と交わらず、何年も自分で自分の事業を見つめてきた結果だと思っている。それほど自分の事業に没頭する時間を過ごしてきたからこそ出来た賜物だと思うのである。そして孤高に生きていると見えてくるものもあるように思う。今は交じりたい人だけ交じり、そうでない人は静かな存在意識を持つようにしている。若い時は人と交じることで教わることもあるかもしれない。しかし、深く深く一つのことを考え続けてきた人には何人も勝ることができない思慮というものがある。
自分の生き方は側から見れば孤独そうに見え、寂しそうに見えるかもしれない。しかし、自分はこれが自分なりの生き方であり、寂しくもなければ、辛くもない。そして、これが自分の心地よい人との間(ま)なのである。これからも狷介孤高(けんかいここう)に生きていけたらいいなと思う。