THE LIFEFUMIO TAKASHIMA
ダイアリー2026.7.19

徒然なるままに

一昨日娘家族がスイスからこちらに合流した。秋から孫達もスイスの学校に通うことにしたので、引っ越しやらサマースクールやら気忙しい時間を過ごしてからのアンティーブなので1ヶ月弱ゆっくりするといい。自分はというと相変わらずで朝イチでラン&スイム、あとはダラダラと本を読んだり、ネトフリを見たりだが直ぐに昼寝に変わってしまう。夕方から食事の支度をし始め、8時頃には食事も終わり、9時過ぎには寝てしまう生活だ。これが東京なら誰彼となく誘いも入るし、誘惑も多いが、ここにいれば特にそういう心がザワつくこともなく安心して堂々と本能に任せたままの生活ができる。ラインの連絡もあまりないし、だんだんとこれが本来の自分のスタイルでいいのではないかと思ってくる。たまたま持ってきた本に「すらすら読める徒然草」というのがあり、乱世の世を生きた兼好法師の言葉が妙に響くところがある。その中の百十二段「日暮れ、塗遠(みちとお)し。吾が生すでに蹉跎(さだ)たり。諸縁(しょえん)を放下(ほうげ)すべき時なり。」という言葉がある。意味は「見よ、日は暮れたが道は遠い。我が人生はガタガタし、すでにケリはつき、これだけのものとわかった。今こそ世間との諸々の縁を断ち切るべき時だ。」という意味らしい。そして「正気ではないとか、人情がないとか、何とでも好きに言ってくれ。非難されようが自分は気にしないし、褒められても耳に入れない。」と続いてゆく。そんな言葉だが、なんかここアンティーブにいると不思議と共感できるのだ。実際に考えて見ると、港区の付き合いや、ましてSNSの付き合いなど、所詮薄っぺらなつながりでしかないと思うし、そんな軽い繋がりの中で義理や人情と言ってもどれだけの人が納得できるのだろうか、その裏側にその何倍もの不義理や薄情が渦巻いているのにと思う。結局は自分の心地良いところだけを重んじれば、それで十分ではないかと思ってしまう。プリツカー賞を受賞している建築家の山本理顕さんが港区は「富裕層の植民地」という表現をしていたが、約6年間ほど住んでいる自分もその喧騒にややうんざりしているし、どこかで帰る先を探しているように思う。最近気になるのは山小屋だが、どこかに帰巣本能が生じているのかもしれない。どちらにしろ2、3年後には港区から離れるだろうし、だんだんと様々な人達との縁も薄くなってゆくのかもしれない。ま、若い若いと言われるのも有難い話だが、老いていく身体に鞭を打ってまで造ってゆく必要もないであろう。

終の住処、残す資産の取捨選択、財団の設立などやるべきことはまだ多々あるのだが、いずれにしても最後はきれいさっぱりといたいものだ。何事も終わりよければ全て良し。晩節を汚さないようにするのは当たり前だが、汚さないよう努力というよりも、存在感そのものを薄ませていく方が良いのではないかと思うのだ。